ケンジロニウスの再生

ロック史を追いながら関連図を作成(関連図挫折中)

4-2 狂ったダイヤモンド シド・バレット

4章はロンドンサイケということで、ひとまず前回はロンドンのカウンターカルチャーアンダーグラウンドサイケデリックの誕生をシドバレットとピンクフロイドを絡めて見てみました。

65年にアメリカから襲来したカウンターカルチャーによって生まれたロンドンアンダーグラウンドとロンドンサイケは66〜67年にかけて劇的な盛り上がりを見せ、もはや「アングラ」とは言えないくらい注目を集めていた。その最中67年3月に「アーノルドレーン」でデビューするピンクフロイドとシドバレットも『ロンドンアングラのヒーロー』という狭い枠組みを抜け出し、世界への第1歩を踏み出したのだ。

4-2 狂ったダイヤモンド シド・バレット

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《ドラッグによって成功の道を閉ざされた天才》といったニュアンスで知られ今なおカルト的な人気を誇るシドバレットだが、彼を語る上でドラッグや狂気じみた逸話はもはや切っては切れないものである。もちろん僕もそれらの伝説に惹かれて彼に夢中になったんだけれども、僕ももう10年以上彼を愛し続けて来たのだからそろそろ少し伝説的な部分は置いておいて彼の本質に触れてみたいと思うようになってきた。何故彼は音楽を辞めなければならなかったのか…そんなことは僕なんかにわかるわけもないだろうが、73年に完全に表舞台から姿を消すまでの軌跡を振り返りながらロジャーキースバレットという男の本質に迫りたいと思う。

あと図を繋ぐ(これがメインなはずなのに)!

ピンクフロイドデビュー!アングラのヒーロー、地上へ!

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ロンドンアングラシーンの頂点に君臨し、ロンドンサイケの起爆剤とも言える活躍を見せたピンクフロイドが67年3月についにシングル「アーノルドレーン」でEMIからデビューし、地上に姿を見せる。

プロデュースはUFOクラブ時代から交流のあるジョーボイド(彼については2章で少し書いた)。

「アーノルドレーン」は全英20位を記録。デビューシングルとしては上々な滑り出しだった。「アーノルドレーン」はシドのポップセンスが光るサイケナンバーであるが、ピンクフロイドをアングラ時代から知るファンには「丸くなった」という印象を与えた。確かに長々と続く即興演奏や、実験的でアヴァンギャルドなスタンスで人気を得ていた彼らにしては3分弱にまとまったこの曲は「らしくない」かもしれない。とはいえ奇抜さはないもののオリジナリティに溢れた曲で、「彼にしか作れない」と感じさせられる。

奇抜な発想や既存の形式にとらわれないスタンスは彼の持ち味であるが、真骨頂はオリジナリティ溢れるポップセンスとリズムセンスだと僕は思っている。独特のコード進行とメロディラインとリズム感覚で一聴すると奇をてらってるように思うが、そこに明確にキャッチーさを感じることができる。

65年のピンクフロイド発足時の頃の音源が2016年に発売された「Pink Floyd Early Years 1965-1972」というCD10枚+DVD9枚+ブルーレイ8枚という鬼のボックスセットで聞けるが(8万円ほどする、多分これでしか聞けないよね?聞けるの?)、65年の段階ではまぁカッコいいけどどこにでもいるブルースバンドといった感じである。ストーンズに憧れていたのがよくわかるし、初期ビートルズのようなブリティッシュビートリィな曲もある。影響受けまくりのパクリバンド、は言い過ぎにしても「天才」とは言えない印象だ。そこから2年でどうすればこんなにオリジナリティ溢れる楽曲を産むことができるようになるのか。その答えはやはりLSDなのか、という事になる。

Early Years 1965-1972

Early Years 1965-1972

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LSDとシド

マリファナは高校時代に経験済みであったが、LSDは65年に友人宅でヒプノシスのストームソーガソンらと共に使用したのが初めてで、元々新しいものに積極的であったシドはLSDがもたらす非日常的体験に深く興味を持ちハマっていくことになる。

「ロッカーは不良だからドラッグをする」と思ってる人が多いが、この時代に限っては彼らはいたって真剣に「ドラッグが世界を変える」と信じていた。真理の探求、自身の解放、そしてその先にある平和や幸福というものを真剣に見据えていたのだ。快楽のためだけではなく、彼らはドラッグを目的のための道具として使用していたとも言えるだろう。

シドも同じく「LSD服用中の音楽」の実験に夢中になった。酩酊状態での自身を客観視し目的のために使用できている、という時期が彼にも確かにあった。中毒ではなく必需品として常にそばに置いていたのだ。

「ドラッグをやるといい曲が書ける」という認識もよく持たれるが、僕はあくまで「自己が解放される」だけであり、空っぽの人間がドラッグをやったって何も生み出さないと思っている。65年から67年にかけてシドの作曲能力が桁違いに上がったのは間違いなく、それはLSDを服用し自分の中に眠るものと向き合う膨大な試行実験の結果であるだろう。

67年春、ピンクフロイドは1stアルバム「夜明けの口笛吹き」と2ndシングル「シーエミリープレイ」のレコーディングをしていた。この頃に地元ケンブリッジ時代からの友人で後にシドの代わりにピンクフロイドに加入するデヴィッドギルモアとシドの妹のローズマリーがそれぞれシドを訪れている。傍目から見てシドの異常に初めて気づいたのがこの時期で、ギルモアもローズマリーも共にシドに対して「まるで別人」であるという印象を抱いたことを語っている。

この67年春はアーノルドレーンでメジャーデビューし反応は良好、デビューアルバムと2ndシングルのレコーディングとかなりの頑張り時であった。そして出来上がったものは結果的にシドの全盛期といえる、抜群のポップセンスと非凡なアイデアが交わった極上のサイケポップだ。この時期に何故あちら側の世界に行ってしまうようなことがあったのだろうか。

やはりプレッシャーだろうか、共感覚の持ち主であったと言われるほどの敏感な感性が心を圧迫したのか、元々アスペルガー症候群であったとも言われている。

8月のドイツ公演はキャンセル。10月のアメリカツアーではステージで何もせず宙を見つめたりギターの弦がだるんだるんのまま演奏を始めたり、アメリカの重要なTV番組に出演した際も司会者の質問に虚ろな様子をしたまま返事をせず、と手に負えない状態になってしまっていた。

とはいえマネージャーのピータージェナーは「狂ったフリをしている」と軽く捉えてるレベルであり、シド自身も70年辺りのインタビューで「方向性の違い」的なニュアンスの発言をしている。アメリカツアーでのシドはアングラ時代からの延長の、型にはまらない「フリーフォーム」のスタンスを意図してとっといた可能性もあり、「デビューして人気も出てきたし責任もあるしちゃんとやろうぜ」って感じの他メンバーとの方向性のズレが彼を追い込んでいったという見方もできる。狂い始めたとされるこの時点ではまだLSDによる実験の最中であったのかもしれない。

2ndシングルそして1stアルバム

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そんな危うい状態の中、6月に2ndシングル「See Emily Play(エミリーはプレイガール)」をリリース。プロデュースはジョーボイドからEMI専属のノーマンスミスに代わった。全英6位のヒットとなったこの曲はアーノルドレーンよりも更にポップさを強め、尚且つ実験的要素も強めた名曲である。

この曲は大のシドバレットファンであるデヴィッドボウイが73年「ピンナップス」でカバーしたことでも有名。ちなみに2006年にシドが死んだ際の追悼イベントでボウイとギルモアによって演奏された「アーノルドレーン」もシングル化されている。T-REXマークボランもシドに憧れてカーリーヘアーにしたと言われ、シドはボウイとボランというグラムロックを代表する2人のアイドルであった。

ピンナップス (紙ジャケット仕様)

ピンナップス (紙ジャケット仕様)

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(ボウイ、ピンナップス)

8月には1stアルバム「夜明けの口笛吹き」をリリース。

全英6位、サイケデリックロックの金字塔と呼ばれる名盤である。シドは寓話、SF、東洋思想などを散りばめ、他に類を見ない独自の世界観を世間に叩きつけた。夜明けの口笛吹きについてはピンクフロイドの回でも書いたので、とにかくシドのピークは間違いなくここだ!ということだけを伝えておこう。

3枚のシングル

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(アップルズ・アンド・オレンジズ)

ピンクフロイドは67年に「アーノルドレーン」「シーエミリープレイ」「アップルズ・アンド・オレンジズ」の3枚のシングルをリリース(この3曲は「夜明けの口笛吹き」に収録されていない)している。

シドは「シングル曲制作は嫌いじゃなかった」と後のインタビューで語っているが、シドの異常さにより途中で中断となったアメリカツアーから帰国後の11月にリリースされた3rdシングル「アップルズ・アンド・オレンジズ」がチャートインしなかったことがシドをさらに狂わせた要因だったのではないかと思う。この頃になるとシドは明確なアイデアが出なくなっていたようなのだ。「LSDによる音楽実験」の限界にぶちあたってしまったわけだ。フラワームーブメントもサイケデリックブームも70年になるころには終わってしまうわけだから「LSDによる音楽実験」は頭打ちになるわけで、LSDは万能薬ではなかったという答えが出されるわけなんだけど。シド個人も67年の段階で限界にぶちあたったのだろう。自分はジョンレノンのようになれないと失望したシドは2ndアルバムに向けての曲も書けなくなっていく。人一倍敏感な男なので、自分が天才じゃないと気づいた時に襲いかかる不安や、周りの目と評論に耐えきれなくなったり狂ったふりをしていたという見方もできる。

アーノルドレーン、シーエミリープレイ、夜明けの口笛吹きは紛れもなくシドの天才さを立証できる証拠であると思うが、もしかするとシドは「ドラッグにより狂った天才」ではなくて「天才じゃなかったからドラッグにより狂った」のかもしれない。

あ、「アップルズ・アンド・オレンジズ」、僕は全然素晴らしい曲やと思うけど粗いのは粗いよね。

追放なのか脱退なのか

ライブにも顔を出さないなど不安定な状態が続き、メンバーは打開策として68年1月にシドの旧友であるデヴィッドギルモアを迎えて5人編成でライブを数回こなした。

そして1月26日にロンドンからライブ先に向かう車中で誰かが「シドを迎えに行こうか?」と言い、ロジャーウォーターズが「いや、やめとこう」と答えた。といった感じでそれから二度と迎えに行くことはなくなったらしい。

2月にギルモアの正式加入が発表され、3月にソングライターとして在籍する案(ビーチボーイズのブライアンウィルソンのように)が出されたが4月にシドの脱退が発表される。

「シドがドラッグにより精神崩壊してバンドから追放」という見方が一般的であるが、シド自身は後のインタビューで「方向性が違った、奴らの構築的な音楽は僕は好きじゃない」と決裂であるというような発言をしている。

一方ピンクフロイドのメンバー側はあらゆるタイミングでシドへの罪悪感みたいなものを吐露しているが、この罪悪感に少し疑問があって、ドラッグに溺れて周りに迷惑をかけまくる廃人をバンドから脱退させたことに罪悪感を感じる必要ってある??って思ってしまう。

脱退直前にレコーディングを開始していた68年2ndアルバム「神秘」にはシド作曲の曲が1曲だけ収録されている。その「ジャグバンドブルース」は本当によくできた素晴らしい曲で、70年のソロ「帽子が笑う、不気味に」の狂人具合と比べると100倍まともだと感じる。あきらかにピンクフロイド脱退後にシドは激しく狂っていっていて、「狂って脱退」じゃなくて「脱退させられて狂った」が正しいんじゃないかって思うのだ(シドの肩持ち過ぎな気もする)。

「追放したことは正しかったのか?」という疑問が残るからこその罪悪感であるんだろうか。自分たちが想像以上の成功を手に入れてしまったことも乗っかっているんだろうが。

何にせよこの罪悪感が70年のシドのソロアルバムの手助けへと繋がっていく。

脱退後

シドの脱退と同時にマネージャーのピータージェナーもピンクフロイドを去ることになる。元々シドの才能に惚れたピータージェナーはシドが去ったピンクフロイドに魅力を感じなかったようだ(見誤った経済学者ジェナー!!)。

正式に脱退してすぐの68年5月,6月にシドとジェナーはソロ活動のための軽いデモレコーディングを始める。この時にジェナーは初めて「あ、シドほんとにおかしい」となる。結局使える素材はほとんど録ることができなかった。

この時のシドはヒプノシスのストームソーガソンと同居していたが(ウォーターズとの同居は66年に破綻)、LSDをシドと同じくらい愛していたソーガソンから見てもシドは「イきすぎ」だったらしく恋人に暴力を奮うこともあったようだ。発狂→脱退→続く発狂なのか、実験期→脱退→発狂なのか答えは本人にしかわからないが、脱退によって精神に大きな影響を及ぼしたのは間違いない。シドはこの後精神科での治療のために一時的にケンブリッジに帰っている。

「帽子が笑う…不気味に」

しばらく消息を絶ったシドは69年3月に突然「レコーディングがしたい」とEMIに電話をかける。電話を取ったのは23歳の社員で新人バンドとの契約を担当していたマルコムジョーンズという男であり、彼はこの時期にディープパープルやティラノサウルスレックス(T-REXの前身バンド)などと契約を果たしている将来有望な若手社員であった。音楽界から忽然と姿を消したシドを求めるファンの声はたくさん上がっていたこともあり、この契約を何とか実現させたいマルコムジョーンズは急いでプロデューサーを探す。2ndシングル以降のピンクフロイドのプロデューサーであったノーマンスミスはピンクフロイド3rdアルバム「ウマグマ」の制作で忙しく、シドをよく知るピータージェナーもすでに多数のマネージメントを抱えており暇がなかった。結局シドの「君がやれよ」の一言でプロデューサー経験の全くないマルコムジョーンズがプロデュースすることでレコーディングが始まった。そして69年4月にレコーディングを開始し70年1月にリリースしたのがアシッドフォークの名盤として名高い「The Madcap Laughs(帽子が笑う…不気味に)」である。

1.カメに捧ぐ詩- "Terrapin"
2.むなしい努力- "No Good Trying"
3.ラヴ・ユー- "Love You"
4.見知らぬところ- "No Man's Land"
5.暗黒の世界- "Dark Globe"
6.ヒア・アイ・ゴー- "Here I Go"
7.タコに捧ぐ詩- "Octopus"
8.金色の髪- "Golden Hair"
9.過ぎた恋- "Long Gone"
10.寂しい女- "She Took a Long Cold Look"
11.フィール- "Feel"
12.イフ・イッツ・イン・ユー- "If It's In You"
13.夜もふけて- "Late Night"

シドのピンクフロイド脱退の経緯と今の状態の噂をもちろん聞いていたマルコムジョーンズだが、シドと会ってみると案外まともだという印象を受けている。シドが披露した新曲とピータージェナーから受け取ったデモを聞き「全然いける」と判断しレコーディングが始まった。68年5月のピータージェナーとのデモからは13曲目の「夜もふけて」が使われた。

基本的にはシドのアコースティックギターの弾き語りであり、そこに伴奏をオーバーダブしたものと裸のままのもので構成されている。

69年4月にレコーディングを開始し、シドはまず始動したばかりのハンブルパイのドラムであるジェリーシャーリーを連れてきて4「見知らぬところ」と6「ヒアアイゴー」のドラムを叩かせた。ハンブルパイはスモールフェイセズのスティーブマリオットが69年に新たに結成したバンドである。

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2「むなしい努力」と3「ラブユー」ではソフトマシーンのロバートワイアット、マイクラトリッジ、ヒューホッパーが揃って参加。シドのよれよれのリズムにかなり手こずりながらも彼ららしい演奏を披露している。シドも「ソフトマシーンの奴らがきて、楽しかったなぁ、ケヴィンエアーズはいなかったけど」と振り返っていて、そのケヴィンエアーズの曲のセッションにこの辺りの時期にシドが参加しているのも面白い。

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あとは1曲目の「カメに捧ぐ詩」が4,5月の時期に録られているが、オーバーダブの詳細は不明。がしかし抜群のアシッドフォーク。

以上の6曲がレコーディング開始から1か月ほどで完成したところで、「ウマグマ」のレコーディングを終えたギルモアとウォーターズが駆けつけ残りのプロデュースを引き受けることとなる。

7「タコに捧ぐ詩」はシングルとしても発売され主にギルモアによる伴奏によって彩られた。

8「金髪の女」はジェームスジョイスという詩人の詩に曲をつけた不気味な雰囲気の曲であり、9「過ぎた恋」はトラッドっぽい暗いフォーク。この2曲はリズムもブレることなくオーバーダブも上手く重なり、独特の雰囲気を持った素晴らしいテイクだと思う。

5「暗黒の世界」と10〜12の4曲はシドの弾き語りとなっているが、彼を「狂人」と世間に印象付けたのはこの部分だろう。特に10〜12の3曲。

5「暗黒の世界」は僕がシドのソロで1番好きな曲で《僕がいなくて寂しくないの?》と叫ぶ姿は後の75年のピンクフロイドの《あなたがここにいてほしい》と呼応する形となり悲しみに満ち溢れている。この曲は間違いなく彼に悲しく寂しいイメージをつけたであろう。

問題は10〜12の3曲で、3曲とも素晴らしいフォーク曲であるのだが、10「寂しい女」では途中で譜面をパラパラとめくる音がそのまま録音されており曲の終わりも中途半端なところで演奏を止めてまた譜面をパラパラとめくる音で終わる。

11「フィール」はボブディラン調の美しいメロディが光る曲だが、ギターのミスがとにかく多いしリズムもとても不安。この曲はほんとに名曲の香りがするのでどうにかいいテイクを録ってほしかった。

1番酷いのが12「イフイッツインユー」。日ごとに精神の調子が変わるシドだったようだが、この日は特に酷かったのか歌い出しからつまづいてやり直したのをそのまま使用されている。まだ次の小節が来てないのに歌が何度も先走ってしまったり(ドモりみたいな感じ)、歌もギターもめちゃくちゃ。まるで幼児のようで、僕はこの曲を聴くと「頑張れ、頑張れ、ハイッハイ」と手拍子をしながら応援して泣きそうになってしまう。

問題なのはギルモアとウォーターズが途中からプロデュースを買ってでときながらこの3曲に何も手を加えなかったこと。これで世間の人間はシドを完全に「狂人」として認識してしまうことになる(カルトファンは増加しただろうが)。ギルモアは「ありのままの姿を見てもらう必要があると思った」と述べたがこの公開処刑とも取れる措置を「正しくなかったかもしれない」と反省している。ウォーターズは「もう誰もシドをプロデュースできない」と何にもしてないくせに見放した。

シドの旧友でありシドと交代でピンクフロイドに加入することになったギルモアは、ずっとシドを気にかけていたんであろう行動や発言が見られる。続く2ndアルバム「その名はバレット」でも進んでプロデュースを申し出、制作中にはベーシストとしてライブもしている。時は流れてソロのライブでも「暗黒の世界」を涙を浮かべて熱唱している映像もある。シドが死んだ時はボウイと共にアーノルドレーンなどを歌った。シドの代わりに入った彼に成功に対する野心などなく、親友が空けてしまった大きな穴を何とか埋めようと必死であったらしい。しかし思いがけないバンドの大成功に後ろめたい気持ちがずっとあったようなのだ。

ウォーターズはというと(もちろん僕はウォーターズも好きなんだけど、シド側に立って偏見で言わしてもらう)シドを追放した本人であり、その後ピンクフロイドの実権を完全に握った男である。ソロ1作目はプロデュースに加わるが「誰もシドをプロデュースできない」と見限り2作目では参加しなかった。80年以降ごろケンブリッジの実家隠居中のシドの隣人(この隣人はこの時期まだ子供でシドの経歴も知らずただ恐怖しかなかったらしい)の証言によると「昼夜問わず言葉にならない奇声や叫び声が響いていた。そんな中なんとか聞き取れる言葉はいつだって《ロジャーウォーターズ!ぶっ殺してやる!》という類のものだった」らしく、そのことからシドがウォーターズに対して特別憎しみを抱いていたことがわかる。ウォーターズはシドの2歳年上であり、シドが主導権を握る状態に嫌悪感を感じていたのかもしれないしバンド追放もドラッグ云々もあるが個人的な感情もあったのかもしれない(ここまじでめちゃくちゃな推測やから鵜呑みにしないでね!)。

まぁ僕はやっぱりロジャーウォーターズが気に入らないみたいだ。音楽も思想も素晴らしいし、「狂気」も「あなたがここにいてほしい」も本当に素晴らしく最高のアルバムであるがシドを思うとこの2枚がより一層シドが「伝説の狂人である」という印象を強めたことにもなる。

いや、好きなんだよウォーターズ。彼のすごさはピンクフロイドの回で存分に書いたので、うん、好きなんだ。

はい、帽子が笑う…不気味に。

シドはこのアルバムについてのインタビューでアルバムの出来に納得がいってる様子を見せる一方で「アコスティックギターと歌、それだけなんだ」とみんなが必死で頑張ったオーバーダブがなかったかのような発言をしている。この日、調子悪かったのかな。しかし「まだ曲はたくさんあるんだ」と次作に対しての意欲を示した。TV番組にも出演し、アルバムについてのインタビューにも答えている。

「帽子が笑う…不気味に」という邦題は実は全くの誤訳であり、「Madcap」とは「向こう見ずな男」という意味であり直訳すると「向こう見ずな男が笑う」といった意味となる。そう言えば、シドが帽子被ってる写真なんて見たことないな…なのに帽子のイメージ着いてた。言葉って怖いぜ!

縞々に塗った自室の床に1人座り込むジャケットデザインはヒプノシスによるもので、床はバレット自身が塗ったものである。写真はミックロック(ボウイやイギーポップ、クイーンなどを撮ったことで有名な写真家)が撮ったものである。彼が2002年に出したこの時期のシドを撮った写真集が限定950部で発売され、そのうち320部になんとシド直筆のサインが書かれた。シドが隠居後こうした世間に向いた行動をしたのはこの一度きりじゃないだろうか。ちなみにこの写真集のほとんどをデヴィッドボウイが買い占めたという噂がある。つまりまず手に入らない。やりすぎだよボウイ。

その名はバレット

70年1月に「帽子が笑う…不気味に」をリリースし全英40位を記録すると、2月にはすぐに次作の制作に入った。プロデュースはデヴィッドギルモア。バンドにはギルモアと前回も参加したハンブルパイのジェリーシャーリー、そしてピンクフロイドのリチャードライトも加わった。シドとリチャードライトの関係は概ね悪くなかったようで、脱退後もライトの家を何度か尋ねていたという話もある。前作では多数の人間が関わり何とか組み立て組み立て出来上がったアルバムであるが、今回はギルモア主体のチームで一体となってサポートしサウンド的にはまとまりのあるアルバムとなった。70年11月に2ndソロアルバム「Barret(その名はバレット)」をリリース。

1.ベイビー・レモネード- "Baby Lemonade"

2.ラヴ・ソング- "Love Song"
3.ドミノ- "Dominoes"
4.あたりまえ- "It Is Obvious"
5.ラット- "Rats"
6.メイシー- "Maisie"
7.ジゴロおばさん- "Gigolo Aunt"
8.腕をゆらゆら- "Waving My Arms in the Air"
9.嘘はいわなかった- "I Never Lied to You"
10.夢のお食事- "Wined and Dined" -
11.ウルフパック- "Wolfpack"
12.興奮した象- "Effervescing Elephant"

ジャケットの昆虫の絵はシド自身によるもの。

1stはシドの弾き語りにオーバーダブで何とか装飾したという感じだったが、今回もほぼ同じ手法を使っているものの全曲しっかり「バンドサウンド」という印象を受けることができる。シドの歌やギターも前作ほどヘロヘロさを感じさせず、素直にシドのメロディセンス、作曲センスをしっかり堪能できる仕上がりになっている。ギルモアは本当に頑張ったんであろう。やはり一般的にシドの狂人具合が見て取れる1st「帽子が笑う…不気味に」が目立ちがちだが、アルバムとしての仕上がりは間違いなく2ndのほうが良いだろう。リチャードライトのオルガンが入ったことも大きな変化で、アシッドフォークというよりもサイケポップと言えるのかもしれない。

アルバムはギルモアによるギターのソロプレイから始まる名曲「ベイビーレモネード」から幕を開ける。

2曲目「ラブソング」では常にどこか暗い雰囲気を醸し出していたシドから聖なる雰囲気が滲み出ている。

3曲目「ドミノ」でのシドのフィードバック奏法とライトのオルガンの交わりはピンクフロイド時代のシドの復活を感じさせるし、独特の節回しは秀逸。僕はこのアルバムで1番好き。

…あれ?シド、復活したんじゃないの?って思うんだけど、これはギルモアらによる頑張りの賜物であり実際にはシドの演奏と歌はほぼ1テイクのみしか録れていない(7曲目の「ジゴロおばさん」は例外で15テイクまで行っていて、なるほど完成度がより高い)。その1テイクに全力でオーバーダブして作り上げたのがこのアルバムである。前作では「ありのままの姿(狂人)」を見せたが2ndではしっかりパッケージングしてシドの音楽的能力をアピールできた結果となったと思う。

実際のところシドの状態は以前よりも悪くなっていたようで、6月にギルモアとジェリーシャーリーを従えてソロ後初となるライブを行うが4曲目が終わると突然「ありがとう、さようなら」と言い残しステージを降りた。これがロンドンでの彼の最後のライブとなった。

この時期のルームメイトはポップ・アートの画家ダギー・フィールズであり(2003年のドキュメント公開時はまだ同じアパートに住んでいた!)、彼によるとこの時期のシドは部屋に篭りっきりで異臭がするほどであったらしい。

70年秋には「その名はバレット」のリリースを待たずしてケンブリッジの実家に帰ってしまう。周りからすれば突然の出来事で、この後二度とロンドンの音楽シーンに戻ってはこなかった。この時恋人を連れてケンブリッジに帰り、その後婚約をするが破綻している。

スターズ

シドはしばらく実家の地下に引き篭もった。唯一71年3月にインタビューを受けているが、それがまた意外とまともなのだ。

72年に突然ライブをする機会が訪れる。エディバーンズというブルースギタリストがケンブリッジに来た際のセッションに参加したのだ。この時の音源が「The Last Minute Put Together Boogie Band‬」というバンド名の「Six Hour Technicolor Dream」というアルバムとして2014年にリリースされている。

そのセッションで一緒になった元デリヴァリーのジャックモンクと元トゥモローのトゥインクと3人で「スターズ」というバンドを結成し5回ほどライブを行ったというのだ。

おっ、デリヴァリーもトゥモローもすでに図に出てますねっ!

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スターズは今のとこ音源が明らかにされていないが、ファンの間ではシドが最後に組んだバンドとして有名である。いやしかし「The Last Minute Put Together Boogie Band‬」に関してはたった今これを書きながらスターズについて調べてたら情報が出てきたので正直ビックリ。僕が夢中になって調べてた10年ほど前の時にもエディバーンズのライブのアンコールに参加した、という話は見たことがあったがまさかセッション音源が2014年にリリースされてるなんて…こーゆーことあるんだよなー。

ジャックモンクの奥さんがシドの元恋人だったようで、その縁でセッションに呼ばれてスターズを結成することになるんだけど、ドラムで参加した元トゥモローのトゥインクって男がまたロンドンサイケの重要人物でイカれた男なのでまた紹介したい。

スターズはピンクフロイドの曲を中心に演奏したそうだが、シドの状態は悪く出来は最悪であったらしく、その酷いライブの様子はメロディメーカー誌に掲載された。シドはその雑誌を手にしてトゥインクのもとを訪れ「もうやめたい」と言ったらしい。このライブがシドの最後のライブとなった。

隠居とその後

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(Opel)

その後のシドの知られているアクションとしては

73年にケンブリッジでクリームの作詞家であったピートブラウンが朗読会をしたときに伴奏で来ていたジャックブルースと少し楽器を鳴らしたという話(ほんとに鳴らした程度)。

74年にピンクフロイドの成功によってさらにシドのカルトファンが急増したことをEMIが嗅ぎ取りシドに新作要請をし、レコーディングを行う運びになった。が、シドは弦の張ってないギターを持ってスタジオに現れ、音源と呼べるものは一切録れることなく終わった。

あと有名な、75年にピンクフロイドがシドをテーマに作ったコンセプトアルバム「あなたがここにいてほしい」をレコーディングしている最中にふらっとスタジオに現れた話。これはピンクフロイドの回でも書いたので省略、悲しい話。

その後は完全に音楽から離れ、チェルシーにアパートを借りて暮らしたり慈善施設で過ごしたりするが、80年代には再びケンブリッジの実家に戻り絵を描いたりしながら2006年に糖尿病の合併症で死ぬまで暮らした。

このケンブリッジの実家で過ごしている時期になっても彼のカルトファンは減ることはなく、パパラッチは何度も彼を直撃していて、彼の見る影もない姿を世間に晒した。

88年に「オペル」という未発表音源集がリリースされたり、90年代に「帽子が笑う…不気味に」と「その名はバレット」がCD化された際にはボーナストラックに未発表テイクが追加された。

ファンとしては未発表音源を聴けることは僕ももちろん嬉しいが、やはりこれも醜態を晒しているようなものだと思ってしまう。しかしこうした音源を聴いていると本当にまともなテイクはごく僅かしか残せていなかったんだなぁということを痛感する。

ケンブリッジでの暮らしは主に母が面倒を見ていたが91年に亡くなった後は妹のローズマリーが面倒を見ていた。シドがギターを触ることも音楽の話をすることもほとんど無かったようだが、たまにピンクフロイドの事について言及する時は「うちのバンド」という表現をしていたらしい。

この時期の彼の様子を語った隣人の回顧録(2006年)があるので興味のある方は是非。

http://killshot.blog65.fc2.com/blog-entry-50.html

晩年は現代美術について自分なりにまとめた本の執筆に没頭していたという話もある。

生活は質素なものであったが、彼は死後兄妹に4億円もの遺産を残した。

終わり

まぁこんなとこだろうか。やっぱり人生というのはとてつもなく複雑なものであるので、「ドラッグで狂った天才」なんて単純に片付けるべきではないなぁなんて思ったりして長々と書いたけど、結局何が言いたいんだっけ……まぁ僕、シドバレットが好きなんです。

次はトゥモローからトゥインク関連へと行きましょうかね!

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