ロック史におけるウエストコースト
アメリカ西海岸、ウエストコーストというのはロック史において本当に重要な場所であるということはここまで書いてきた範囲だけでも十分伝わっているかと思う。
60年代半ばに世界初のサイケデリックロックとフォークロックの二冠を達成したとも言えるThe Byrdsが誕生したこと。ベトナム戦争や公民権運動を背景にアメリカ中で発生したカウンターカルチャーと共に生まれたヒッピー達は67年に《サマーオブラブ》と呼ばれる社会現象を巻き起こし、その聖地が西海岸サンフランシスコであり、その中心にいたのがGreatful DeadやJeffason Airplaneであったこと。その他にもBuffalo SpringfieldやDoorsなど60年代末のウエストコーストには重要バンドが山ほどいる。
東海岸(って言いかたあんましないよね…)ニューヨークがアメリカ最大の都市であることは間違いないが、当時の若者文化の中心地であったのは西海岸であった(ニューヨークにはディランとヴェルベッツがいたけれど)。
コロンブスがアメリカ大陸を発見し、ヨーロッパ人が東海岸に上陸し、ゴールドラッシュでカリフォルニアへ向かって西部開拓が始まって、鉄道が走り街ができ…って、ほんとに中学生レベル以下の世界史知識しかないんだけど西海岸はアメリカの夢の終着駅ってイメージがあって。アメリカの国としての中心は東なんだろうけど夢と自由が西にはある、みたいな。
そんな西海岸で生まれたヒッピーカルチャーやドラッグカルチャーはアメリカのみならずイギリスにも多大な影響を与え、ロック史において重要な起点となったと言えるだろう。
海
そんな夢と自由のイメージの西海岸だが、もう一つ重要なイメージがあって、それが《海》である。東海岸も《海岸》であるのでもちろん大西洋とゆー海はあるがやはりニューヨークというとビル群のイメージであり《ビーチ》としての海のイメージはあまりない(もちろんたくさんビーチはある)。太陽!ビーチ!ビキニ!サーフィン!なイメージはやはり西海岸に強く、そうしたイメージは60年代のサーフィン映画及び《サーフミュージック》そして《カリフォルニア・ポップ》へと繋がっていく。
そしてその中心にいたのがビーチボーイズであり、ビートルズやボブ・ディランと同じくロック誕生年(僕の認識では)の62年にデビューした彼らは西海岸のみならずアメリカ全土において最初期のアメリカンロックを支えた重要なバンドなのである。
6-2 ビーチボーイズ〜天才ブライアン・ウィルソン〜
ではビーチボーイズのバイオグラフィを軽く。歴史がありすぎてキリがないのでほんとに軽く…
ビーチボーイズは61年結成から今現在も活動中でありもうすぐ結成60年にもなる。同じく長寿バンドである62年結成のローリングストーンズよりも1年長い御長寿バンドである。
カリフォルニア州ホーソンのウィルソン家の長男ブライアン・ウィルソン(ベース)、次男デニス・ウィルソン(ドラム)、三男カール・ウィルソン(ギター)、従兄弟であるマイク・ラヴ(ボーカル)、ブライアンの高校の友人アル・ジャーディン(ギター)の5人で結成された。当初はウィルソン兄弟の父マレー・ウィルソンがマネジメントを行っており、ほぼウィルソン家で構成されたバンドである。
ビーチボーイズは大きく分けると4つの時期に分けることができるだろう。
1.《サーフィン/ホットロッド》期(62〜64年)
2.《カリフォルニア・ポップ》期(64〜65年)
3.ペットサウンズ、スマイル期(66〜67年)
4.ブライアン以外のメンバー頑張り期(67年〜)
僕はビーチボーイズが大好きであるがマニアでは全くなく、全てを熟知しているわけではないが順を追って見て行こうと思う。
1.《サーフィン/ホットロッド》期(62〜64年)
デビュー時のビーチボーイズは《サーフィン/ホットロッド》と呼ばれる音楽性であった。《サーフィン/ホットロッド》とはいったいどういった音楽かというとロックンロールに乗せて「サーフィン・車・女の子」についての歌を歌う、というものである。なのでつまるところ音楽的にはロックンロールであり、僕はロックンロールとロックを区別するスタンスであるのでやはりビートルズがアメリカへ上陸した64年以降にビーチボーイズもロック化するという見方である。
サーフミュージックはビーチボーイズデビュー以前にも西海岸に存在していたようだがそれはインストゥルメンタルであり、ビーチボーイズは西海岸の若者を象徴する「サーフィン・車・女の子」を歌詞にのせて歌い新しいサーフミュージックを切り開いたと言えるだろう。さらにこの初期の時期から彼らの後年の代名詞となるコーラスワークはしっかりと機能している。
初期のビーチボーイズのアルバムリリースのスパンは異常な早さであり、62年1st「Surfin' Safari」、63年2nd「Surfin' USA」、3rd「Sufer Girl」、4th「Little Deuce Coupe」、64年5th「Shut Down Volume 2」
という感じである。
3rdアルバム「Sufer Girl」から早くもブライアン自身がプロデュースを務め、以降ブライアン率いるビーチボーイズ、という形で進んで行くこととなる。この3rdの頃からブライアンはスタジオミュージシャンを起用し始め、後にブライアン以外のメンバーは歌以外演奏にほぼほぼ参加しないところまでいってしまうのだがそれはまた後ほど。
結成メンバーのアル・ジャーディンであるが、デビュー前に一時脱退しており63年に復帰、代わりにギターで加入したデヴィッド・マークスは1stから4thまで参加し、脱退している。
63年4th「Little Deuce Coupe」はホットロッドの決定盤と言えるアルバムであるが、前作までにすでに発表済みの曲と新曲とが混在しておりコンピレーションアルバムとも捉えることができるが新曲が8曲もあるのでここでは4thアルバムと数えさせてもらう。
ゲイリー・アッシャー
全ての曲の作曲にブライアンが関わっているがマイク・ラヴとの共作もいくつかある中、バンド外の作曲家との共作もこの頃は目立つ。その共作相手がゲイリー・アッシャーとロジャー・クリスチャンという男であり2人ともサーフィン/ホットロッド界隈の人間である。初期の作品のいくつかの重要な曲の作曲に関わった2人だが、このゲイリーアッシャーという男が後にソフトロックの重要人物となるのでチェック。
ブライアンのアイドル、フィルスペクター
難解だと言われる全盛期(66〜67年)に比べると何も考えずに聞ける爽やかさを持った初期であるが、順に聴いていくと徐々にブライアンウィルソンの才能が開花していくのがわかる。64年5th「Shut Down Volume 2」こそコンピっぽいタイトルだけど正真正銘のスタジオアルバムであり、fun,fun,fun、don't worry babyといった初期の代表曲が収録されており、サーフィン/ホットロッドの完成形でありながら次のステージの匂いも感じる名盤である。don't worry babyはビーチボーイズ全キャリアの中でも僕の好きな曲であるが、この曲の元ネタとなったのが女性ボーカルポップグループ、The RonettesのBe my babyである。ブライアンが「1000回以上聴いた」というこの曲をプロデュースしたことで有名なのがかの有名なフィル・スペクターである。
フィルスペクターは60年代前半のアメリカのポピュラーミュージックを支えた音楽プロデューサーである。彼の恐るべきサウンドへの執着は異常であり、多数のスタジオミュージシャンを起用してオーバー・ダヴを繰り返し作り上げる重厚なサウンドは「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれ、そのレコーディング方法と音楽制作者としてのストイックな姿勢は英米問わず多大な影響を与えた。
ロネッツを初めとして数々のポップスアーティストをプロデュースし、60年代半ばまでにヒット曲を量産するフィルスペクターだが、70年にビートルズの「Let It Be」を手がけたことでも有名である。ジョンとジョージはその手腕に感動し、その後ソロ作品でもプロデュースを任している。
かなりの変人、というか狂人であり、レコーディング中にジョンレノンと意見が対立した際に拳銃で脅した話は有名。マスターテープをもって雲隠れした話も。
80年代になると音楽業界から身を引くが、2003年に女優ラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕され、現在も服役中である。
ちなみに近年の写真↓
なんにせよ60年代前半のフィルスペクターのプロデュース作品はブライアンウィルソンに大きく影響を与え、フィルスペクターの代表曲とも言えるロネッツのBe my babyを元にブライアンはDon't worry babyという名曲を作り上げた。ちなみにさらにそのDon't worry babyのサウンド作りを元にThe byrdsのMr. Tambourine Manの豊かなフォークロックサウンドが作られたという。この3曲の流れは西海岸サウンドの系譜と言えるだろう。
そんな素晴らしいDon't worry babyが収録された64年「Shut Down Volume 2」だったが、ブライアンはこのアルバムを破棄したいと言い出す。そう、ビートルズがアメリカに侵攻してきたのだ。
ここからビートルズvsビーチボーイズという構図が67年頃まで続き、ブライアンは精神を蝕まれていき最終的には潰れてしまうわけなんだけど、この時期はビートルズへの対抗心をエネルギーに変えて次のステージへと進むのである。
2.《カリフォルニア・ポップ》期(64〜65年)
前作で垣間見えたフィルスペクターからの影響をさらに強めていくのがこの時期で
64年 6th「All Summer Long」、7th「The Beach Boys' Christmas Album」
65年 8th「The Beach Boys Today! 」、9th「Summer Days (And Summer Nights!!)」、10th「Beach Boys' Party! 」
をリリースしている。しすぎである。デビューして3年で10枚のアルバムをリリースしてるんだから、キャピトルレコード鬼である。どブラック企業である。
まずこの時期に起きた変化で言うと、サーフィンから卒業すること。元々ブライアンはサーフィンに興味がなかったようであるし、自分の歌を歌うべきであることをビートルズから学んだのかもしれない。
さらにデビューからマネジメントをしていた父マレーウィルソンを解雇にする。やっかいな父親であったみたいだが、実の父親にクビ宣告をするのはなかなか…
そしてスタジオミュージシャンを本格的に起用し始め、そのミュージシャンのほとんどはフィルスペクターの元、仕事をしていた面々であった。
レッキング・クルー
フィルスペクターの狂気的とも言えるサウンド作りに付き合わされた数十人のスタジオミュージシャン達は後に《レッキング・クルー》と呼ばれ、ウエストコーストにおいて非常に重要な存在となる。60年代から70年代に数百のヒット曲を含む数千の曲のレコーディングに参加している。
代表的なのはもちろんフィルスペクター関連、そして60年代半ばのママス&パパス、The 5th Dimension、アソシエイションなどのカリフォルニアポップ、アイドルバンドのモンキーズ、
そして先ほどフィルスペクターのBe My baby→ビーチボーイズのDon't worry baby→バーズのMr. Tambourine Manにはサウンド上の流れがあると書いたが、このバーズのデビューシングルMr. Tambourine Manもロジャーマッギンの12弦ギター以外レッキングクルーによるものである。
70年代に入るとカーペンターズを支えたことで有名であるが、レッキングクルーの一員であるレオン・ラッセルやグレン・キャンベルはソロ活動でも成功することとなる。
デレク・アンド・ドミノスに加入するジム・ゴードンやジョン、ジョージ、リンゴのソロ作品に参加したジム・ケルトナーもレッキングクルーの一員であるが、正直メンバーと活動が多すぎて全然把握しきれていない。のでまとめて《レッキングクルー》としてだけ図に記しておきます。
レッキングクルーにスポットを当てたドキュメンタリー映画も公開しているので、気になる方は是非!
憧れのフィルスペクターの後を追ってレッキングクルーを起用し始めたブライアンとビーチボーイズは64年に6th「All Summer Long」、7th「The Beach Boys' Christmas Album」をリリース。
クリスマスアルバムは明らかにフィルスペクター63年の「A Christmas Gift for You from Phil Spector」の影響であるが、僕はこの時点でもうブライアンはフィルスペクターを超えていると思う。録音環境が整っていない60年代頭にフィルスペクターが成し遂げた偉業は認めざるを得ないが、《ウォール・オブ・サウンド》、音の壁、とはよく言ったもので妙な圧迫感を感じてしまうのだ。その点ブライアンは影響を消化しつつもクリアにまとめ上げていると思う。
しかしメディアと世間による《ビートルズvsビーチボーイズ》の盛り上がり、そしてビートルズの確かな勢いによってブライアンはノイローゼになってしまう。
65年になるとブライアンはライブツアーを断念し、ブライアンの代わりのツアーメンバーとしてスタジオミュージシャンとしてすでに参加していたレッキングクルーの一員グレン・キャンベルが加入するが、グレンキャンベルはすぐに脱退し、代わりにサーフィン/ホットロッド界隈でソロデビューし活躍していたブルース・ジョンストンが加入し以後正式メンバーとしてビーチボーイズを支えていくこととなる。
こうしてメンバーがツアーを行っている間、ブライアンは1人スタジオに残りスタジオミュージシャンと共にアルバムを制作する、という分業制のスタイルとなるわけだ。
そして65年に8枚目のスタジオアルバムとなる名盤「The Beach Boys Today! 」を作り上げ、ライブから離れてレコーディングに使える時間が増えたことでこのアルバムからブライアンの才能が存分に発揮され始める。ビートルズも66年「リボルバー」以降ライブを行わなくなりスタジオワークに専念するが、こうした音源に重きを置いた動きが60年代末のソフトロックへと繋がっていくと僕は考えている。
9th「Summer Days (And Summer Nights!!)」ではキャピトルレコードからの要望で再びサーフィンに引き戻される形となるが、音楽的にはブライアンは勢いを止めはせず、外観はサーフィン色を纏っているが中身は過去のサーフィン/ホットロッドとは似ても似つかないものである。
才能が開花していくのと並行して精神が崩壊していくブライアンは最終的に「ペットサウンズ」という奇跡の名盤を残すわけなんだけど、その前にスタジオライブアルバム「Beach Boys' Party! 」というアルバムを残している。
内容はビートルズやボブディラン、フィルスペクターやドゥーワップなどのカバーを中心としたスタジオライブ音源であるが、これはキャピトルレコードによる「あれ?今年のクリスマスアルバムは?」という要望によるものであった。
正直僕はかの有名なペットサウンズ直前の拍子抜けなこのアルバムに長らく興味を示していなかったが、今となると割と元気なブライアンの姿にほっこりするし何よりブライアンを精神的に追い込んだライバルであるビートルズの楽曲を3曲もカバーしていることも感慨深いところがある。
ここまでの時期を《カリフォルニアポップ》期だと僕は思っているんだけど、フィルスペクターへの強い憧れから60年代前半にフィルスペクターが作り出したポピュラーミュージック、俗に言う《オールディーズ》的なニュアンスが強くてもちろんビートルズ等《ブリティッシュ・インヴェンション》の影響もあるが、ロックというよりはポップスという印象である。
サウンド的にはビートルズを上回っていると言ってもよいと思うが、楽曲的にはビートルズのオリジナリティに比べると…というのが正直なところで「いつの時代に聴いても新鮮な音楽」という感じはしない。素晴らしいんだけどね。
そして66年11枚目のアルバム「ペットサウンズ」がまさに「いつの時代に聴いても新鮮な音楽」どころかロック史史上最高のアルバムに数えられる1枚となるわけだ。
3.ペットサウンズ、スマイル期(66〜67年)
66年「ペットサウンズ」のすごさはもはや語るまでもないが、これまたブライアン1人とスタジオミュージシャン(レッキングクルー)によって作られた。他のメンバー、特にデニスウィルソン、マイクラヴ、アルジャーディンの3人(カールウィルソンとブルースジョンストンは割と肯定的であったよう)は難解すぎる歌詞やアレンジ、コーラスワークに疑問を持ちマイクラヴが「こんな音楽誰が聞くんだ?犬か?」と否定したことから「ペットサウンズ」というタイトルが名付けられたという。
ビートルズの「ラバーソウル」の影響が強いと言われていて、逆にこのアルバムに刺激を受けてビートルズは「サージェント」を作ったと言われている。
歌詞はブライアンの内面を強く反映した内向的なものであり、かつての「夏、太陽、ビーチ、サーフィン!」な陽気さとは真反対とも言えるものだ。ブライアンは自分の内面に潜む感情の翻訳者として作詞家のトニー・アッシャーを迎え共作という形で作詞を行なったが、このトニーアッシャーは後にロジャーニコルズと組むこととなり、ここにもソフトロックへの繋がりがある。が、ロジャーニコルズはまた次回。
音楽ジャンルとしては《バロックロック/チェンバーロック》と呼べるものであると思う。チェンバーとは室内楽のことであり、つまりは教会や劇場で披露されるオーケストラのような大編成ではなく少数編成の重奏によるアンサンブルによって成り立つクラシック音楽である。《バロックロック/チェンバーロック》の代表曲はストリングを導入したビートルズのyesterdayやEleanor Rigby、ハープシコードを使ったIn My Lifeなどがあり、フィルスペクターのレッキングクルーにも多数のクラシック楽器奏者がおり、ブライアンウィルソンも今作でハープシコードやストリングス、フルートなどの管楽器を存分に使った見事なアンサンブルを作り上げた。
この《バロックロック/チェンバーロック》というジャンルに触れる音楽はどこか《ソフトロック》的であるし、《ソフトサイケ》的でもある。プログレッシブロックにおけるクラシックの導入とは少し種類の違うもので、大袈裟ではなく哀愁を帯びた雰囲気の印象。
プロデューサーとしてのブライアンウィルソンの才気爆発は言うまでもないが作曲家としてのオリジナリティも爆発している。ポップ志向を捨て去り自己の内面と向き合った結果のオリジナリティがポップ志向の時のものより影はあるもののよりポップなものを生み出している。
よく難解難解と言われるが曲を構成するアンサンブルやハーモニーのメカニズムは複雑かもしれないが聴きやすいメロディで一聴して「いい曲!」って思える曲達だと僕は思うんだけど、他のメンバーが危惧した通りセールスは全米10位となる。これは当時のビーチボーイズの人気からいうとかなり残念な結果であり、ブライアンの渾身の作品は世間に受け入れられなかったと言ってもいいだろう。以降アメリカではビーチボーイズの人気は低迷していくことになるのだけれど、イギリスでは2位を記録しこの後の数枚のアルバムもイギリスではヒットが続く。
こんなような結果からアメリカ人は何もわかっていない、やっぱりイギリスの方が芸術肌である。って僕なんかは思うんだけど、その分同じような理由で埋もれてしまったソフトロックをはじめとした再発掘の名盤がアメリカにはわんさかあるのよね。
ここから人気が低迷していく、と書いたが実はこの「ペットサウンズ」リリース後ビーチボーイズ史上1番売れたシングルをリリースする。それがGood Vibrationという曲であり、サビのテルミンが有名な極上のサイケデリックソングである。僕もやっぱりこの曲が1番好きかもしれないが、複数のパートが複雑に展開していく〝難解な〟この曲がバカほど売れてペットサウンズが売れないんだから不思議。この曲が収録されるであろう次作は「Smile」というタイトルであることが発表され世間の期待は高まったが「ペットサウンズ」の直後にリリースされたビートルズの「リボルバー」の衝撃や様々なプレッシャー、ストレスによりブライアンの精神は限界であった。
作詞家としてヴァン・ダイク・パークスを迎えて制作が始まり、「ペットサウンズ」を超える名盤の予感を感じさせた「Smile」であったが完成せぬままブライアンの精神は崩壊。「Smile」はロック史上1番有名な未発表アルバムとなり、約45年の時を経て2011年に「The Smile Sessons」として正式にリリースされることとなる。
ドラッグも原因の一つであり、気付かぬ内に過度になっていたという。〝火〟をテーマにした曲であるElements:Fireのレコーディング中に近所でたまたま起きた無関係な火事を自分の責任であると思い込んでしまいその事が精神崩壊の引き金となったという逸話もある。
すでにライブからは離れていたが、ついにレコーディングもままならなくなってしまったブライアン。苦肉の策としてブライアンの自宅にスタジオが作られ、ブライアンが気が向いた時にいつでもレコーディングに参加できるような体制を作った。Beach Boys Studio、またはBrother Recording Studioと呼ばれるこのブライアン自宅スタジオは67年から72年までのビーチボーイズの6作品で使われることとなる。
ブライアン以外のメンバーは「Smile」の残骸を何とか集めて再編集、再レコーディングを施し67年に12th「Smiley Smile」をリリースする。
3rdアルバム以降ブライアンのプロデュースで進んできたビーチボーイズだがこのアルバムは初のビーチボーイズ名義でのプロデュース作品となった。「Smile」がポシャって、なんとか繋ぎ合わせてリリースされたという経緯から失敗作と言われることが多いが何を隠そうこのアルバムが僕のビーチボーイズで1番好きなアルバムである。
スマイルとフィールズ
名曲グッドヴァイブレーションは実は「ペットサウンズ」のレコーディングの終盤に既に録られていた。ブライアンはグッドヴァイブレーションにて辿り着いた新たな音楽制作の手法に可能性を感じ、その手法を存分に使うことを次作「スマイル」のコンセプトにしようと決心する。そんなわけでグッドヴァイブレーションを「ペットサウンズ」のリストから外したわけなんだけど。その手法というのはブライアンが《フィールズ》と名付けた個別にレコーディングした多数の曲の断片のようなものを繋ぎ合わせて曲を組み上げて行くという手法であった。
グッドヴァイブレーションを聞けばわかるが、明らかに全く違う雰囲気の《フィールズ》が曲中に出現してまるで短い組曲のような見事な仕上がりになっている。グッドヴァイブレーションはいくつかの《フィールズ》を繋ぎ合わせて作り上げた曲であり、その誰も聞いたことがない音楽と斬新な作曲方法は音楽業界に衝撃を与えた。
ブライアンはこのグッドヴァイブレーションを《ポケット・シンフォニー》と呼び、「スマイル」のコンセプトを《神に捧げるティーネイジ・シンフォニー》とした。
しかし《フィールズ》を繋いでいく作曲方法、レコーディング方法というのは当時の録音技術、つまりテープの時代には恐ろしく時間と労力を要する方法であった。
ブライアンの精神崩壊、「スマイル」の断念の原因としてブライアンのプレッシャー、ストレス、ドラッグなどがよく取り上げられるが、この《フィールズ》法の難解さも大きな要因であったのだろう。
今現在、「スマイル」は言わば3つのパターンで聴くことができる。
67年のブライアン以外のメンバーがなんとか形にした「スマイリースマイル」、2004年にブライアンがソロ名義で再レコーディングした「スマイル」、2011年に当時の音源を当時ブライアンが思い描いた姿に限りなく編集した「スマイル(スマイル・セッションズのDisk1)」。
僕がビーチボーイズ、というか「ペットサウンズ」にハマったのが多分2007,8年ごろで、すぐに伝説のアルバム「スマイル」に興味を持った。
67年「スマイリースマイル」を入手して聴いた時の衝撃は忘れられない。英雄と悪漢、ベジタブル、グッドヴァイブレーション、は僕の中のロックの革命であったし、何より《ポップバンド》ビーチボーイズの印象をガラリと変えるものだった。そしたらこれが全然不完全な「スマイル」で未完成で失敗作だって言うもんで、当時1番本当の姿に近かったであろうブライアンのソロの2004年「スマイル」に手を伸ばした。
…なんだこのサーフズ・アップという曲は!《フィールズ》法の賜物、天才ブライアンウィルソンの全てがつまった名曲だ!この曲が収録されていない「スマイリースマイル」は確かに未完成だと言える。しかしこのソロ「スマイル」を聴いて今まで大して気にしてなかったビーチボーイズ5人の声の重要性に気付かされることとなる。それぞれがそれぞれの特徴をもった5人の声はもはや5つの楽器であり、そのアンサンブルの素晴らしさに気づいたのだ。
となるとビーチボーイズの「スマイル」がやはり聴きたい、とか思ってたら2011年に真の「スマイル」がリリースされた。
ロックにハマった以上、『リアルタイムで』なんて考えは一切頭から消え去り、ただ歴史を漁るだけの人生を覚悟していたもんで、リアルタイムで伝説の「スマイル」が目の前に現れた感動は凄まじいものだった。即タワーレコードに行ってデラックスエディションを購入した。
凄まじいの一言。ポピュラーミュージックの域を悠々と超えた《神に捧げるシンフォニー》がそこにあった。ブライアンリタイア後、68年以降のビーチボーイズで小出しにされ続けた《フィールズ》達が存分に絡み合ったマスターピースアルバムであった。別の《フィールズ》が挟まれている真のベジタブル、ブライアンのトラウマとなったElements、伝説を目の前にできた喜びでいっぱいであった。
で、どの「スマイル」が1番好きかと問われると「スマイリースマイル」になってしまうんだな。何故かよくわからないんだけど、恐らく「スマイリースマイル」だけがロックアルバムなんだよね。
ロックはエンタメの域を超えて60年代半ばころから芸術化していくんだけど、「スマイル」は芸術の域すら超えてる感じ。まさに《神に捧げるシンフォニー》で、そりゃ精神壊すわって。人間である僕には「スマイリースマイル」がフィットする、って感じなのかな。曲そのものが持つ力は「スマイリースマイル」でも十分に発揮されているし、他で聞けないオリジナリティを誇っている。「スマイリースマイル」はロック史に残る名盤だと思うし、「スマイル」は音楽史に残る名盤だと思う。とにかく天才ブライアンウィルソンここにあり!って感じ。
4.ブライアン以外のメンバー頑張り期(67年〜)
軽くビーチボーイズの来歴を見ていくつもりだったんだけど、長いな…やっぱりビッグすぎるバンドは書くもんじゃない!
さてブライアン隠居後のビーチボーイズはブライアン宅のスタジオでブライアンが調子が良くて気が向いた時だけ参加する、という状態が続く。とはいえ、67年13th「Wild Honey」や68年14th「Friends」はほぼほぼブライアンウィルソンが作曲に関わっていて、作詞は初期のようにマイクラヴが担当している。しかしその後徐々に他メンバーによる作曲が増えてきて、70年代へと突入していくわけだ。
やはりあまり熱中することはできない時期ではあるんだけど、14th「Friends」は名盤である。《神に捧げる》ためのとてつもない試練と苦行を超えた後のリラックス感があり、「サージェント」を投下されたことによってビートルズとの戦争にも完全に白旗を上げ、吹っ切れた感もある。
バンドが《超越瞑想》にハマってる時期でもあり、マイクラヴはビートルズと共にインド訪問に行き本格的にマハリシから学んだほど。時代的にこうした東洋思想はサイケデリックとの繋がりが強かったが、ビーチボーイズ「Friends」はリラクゼーションに振り切ったものである。
バンドとしては難解になりすぎブライアンによる独裁の元作られた「ペットサウンズ」、「スマイル」によるバンド内の確執の平和的解決としての回帰、というテーマもあるようで確かに《海》の匂いが戻ってきている。
僕はもしカリフォルニアに旅行に行くときがあったなら「ペットサウンズ」でも「スマイリースマイル」でもなくまずこの「Friends」をビーチを眺めながら聞くだろう。
僕の世代のサーフミュージックといえばジャック・ジョンソンであり、穏やかな波と爽やかな風が心地よいグッドミュージック、ってイメージがあって。よくよく考えればサーフィンってかなり激しいスポーツであるので《サーフィン/ホットロッド》のロックンロールが正しいサーフミュージックではあるんだろうけどね。
そんな意味で「Friends」にこそビーチとサーフを感じるわけだ。四国巡礼の際(未だ達成できず)に高知の海岸沿いをバイクでひたすら走った時も僕はこのアルバムを聴いていた。
ビーチボーイズとソフトロック
ブライアンがリタイアした67年、西海岸ではヒッピームーブメントが爆発し、その年の夏に《サマー・オブ・ラヴ》が起こった。デニスウィルソンはチャールズ・マンソン率いるカルトヒッピー集団に出資&共同生活を行い、マンソンファミリーが無差別殺人を犯したことでスキャンダルになったりもするが、バンド的にはこの西海岸フラワームーブメントの渦の中にはいなかったと言えるだろう。
60年代後半に西海岸で盛り上がるヒッピームーブメントとサイケデリックロックの裏で、《ソフトロック/サンシャインポップ》が静かに存在していた。
音に対して全身全霊で向き合ったフィルスペクター、そしてブライアンウィルソン。彼らの血を引くのが《ソフトロック/サンシャインポップ》であると僕は考えている。
そんな《ソフトロック/サンシャインポップ》をビーチボーイズとの関連性から見ていけたらと思う。そのためのビーチボーイズだったんだけど、長くなりすぎた!
終わり!
ビーチボーイズは本当に素晴らしいので聴いたことない人がもしいたら是非!
2017年にオアシスのノエルギャラガーが「ブライアンウィルソンは過大評価されすぎ、大したことない、嫌いだ」的な発言をしているがほんまに頭おかしいとしか考えられへん。むしろまだまだ評価足りひんくらいやろ。ま、キャラやからしゃーないけど!キィィ!
《サーフィン/ホットロッド》期は「シャットダウンVo.2」
《カリフォルニアポップ》期は「Today!」
あとはもちろん「ペットサウンズ」「スマイル(個人的にはスマイリースマイル)」
あと「Friends」。
をオススメしてさよなら!
(ビーチボーイズ周辺)