ケンジロニウスの再生

ロック史を追いながら関連図を作成(関連図挫折中)

7-1 グレイトフルデッド〜花のサンフランシスコ〜

夢と花のサンフランシスコ

ママス&パパスという男女混成フォークボーカルグループはカリフォルニアにおいて非常に重要なグループである。彼らは《フラワームーヴメント》の象徴でありながらソフトロックへと続くカリフォルニアポップの役割も果たしたのだから。彼らの代表曲に65年12月のデビューシングル〝夢のカリフォルニア(California Dreamin')〟があるが、この曲は全米でヒットし、以降カリフォルニアを象徴する曲となった。

この〝夢のカリフォルニア〟は実は東海岸ニューヨークで書かれた曲であり、カリフォルニアで出会ったジョン・フィリップスミシェル・フィリップスが駆け落ちの如くニューヨークへ向かい、寒い冬のニューヨークで故郷カリフォルニアを夢見て作った曲である。そして見事カリフォルニアに戻ってママス&パパスを結成し、〝夢のカリフォルニア〟でデビューを果たすわけだ。

ジョンフィリップスはヒッピームーヴメント、サマーオブラブ、フラワームーヴメントの象徴となる67年の野外フェスモントレーポップフェスティバル』の開催にも関わっており、同フェスのプロモーション用の曲として〝花のサンフランシスコ(San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair))〟を書き上げ、スコット・マッケンジーがこれを歌い、この曲は当時ヒッピーの聖地であったサンフランシスコを象徴する曲となった。

夢のカリフォルニア〝花のサンフランシスコ〟。この二つのフォークロックをジョンフィリップスがどれくらいの関連性を持たせて書いたかはわからないが、この邦題をつけた翻訳家とそれを受け取った日本人の僕にとってはアメリカ西海岸を象徴する曲としてセットになっている。

泥沼化していくベトナム戦争を背景に『銃より花を』をテーマにサンフランシスコを中心に巻き起こった《サマーオブラブ》、そしてジョンフィリップスの〝花のサンフランシスコ〟

そんな《花》のイメージが強いヒッピーの聖地サンフランシスコからUSサイケを見て行こうと思う。

 

『サンフランシスコのヒッピームーヴメントとその中心でサイケデリックロックを鳴らしたグレイトフルデッドとジェファーソンエアプレイン』

という類いの文章はこのブログを始めてからもううるさいくらいに何度も何度も登場させてしまってるんだけど、その中身はあまり書けていなかったのでまずはその辺から。

64年に《ブリティッシュインヴェイジョン》によってイギリスからロックが持ち込まれて《アメリカンロック》が誕生した、というのも何度も書いてるんだけど、その影響を受けたアメリカのミュージシャンのほとんどがフォーク界隈にいた人間であった。そんなわけでアメリカの第一世代のロックバンドというのは《フォークロック》バンドがほとんどである。

バーズママス&パパスなどがまさにその例であるがサイケデリックで知られるサンフランシスコの面々も元々はフォークロックバンドであったのだ。

この第一世代のサンフランシスコの代表的なバンドがグレイトフルデッド、ジェファーソンエアプレイン、クイックシルバーメッセンジャーサーヴィス、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、モビーグレープ辺りであるが、フォーク時代には

ポール・カントナ(ジェファーソンエアプレイン)とデヴィッド・フライバーグ(クイックシルバーメッセンジャーサーヴィス)がデュオを組んでいたり、ジェリー・ガルシアグレイトフルデッド)やデヴィッド・クロスビー(バーズ)らも同じ界隈で活動していたようだ。

そんな彼らが《ブリティッシュインヴェイジョン》の影響でそれぞれロックバンドを結成しだしたわけだ(デヴィッドクロスビーはロサンゼルスに移りバーズ結成)。

やはり早いのはロサンゼルスのバーズで、65年に〝ミスタータンブリンマン〟でデビュー、66年に〝霧の8マイル〟で世界初のサイケデリックロックを放つ。サンフランシスコ勢は音楽的にはそれを追いかける形にはなるが、ヒッピー、サイケの一大ムーヴメントを巻き起こしたのはサンフランシスコ勢であり、その中心にいたのがグレイトフルデッドであった。

7-1 グレイトフルデッド〜花のサンフランシスコ〜

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さて7章まできてようやくアメリカンロック最重要バンドの一つグレイトフルデッドだが、実は図ではこのブログのスタート、第1章で登場している。

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CSN&Yの名曲〝Teach your children〟にてスチールギターでゲスト参加したのがグレイトフルデッドの中心人物ヒゲ魔神ジェリー・ガルシアであった。という繋がりで登場。

サンフランシスコのみならず西海岸において広い交友関係を持っていたジェリーガルシア及びグレイトフルデッドであったが、ヒットチャートとはほぼ無縁のバンドであった。であるなら何がそんなにすごいのか、ということをバンド結成から順を追いながら書いて行こうと思う。

とはいえ《60年代後半〜70年頭至上主義》の僕はやはりその時期のグレイトフルデッドしかちゃんと聞いていないので、初期の話に偏る文章となるがお許しを。

ワーロック

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65年にサンフランシスコのベイエリアにあるパロアルトという都市でジェリーガルシアボブ・ウェアを中心に結成したバンドは当初ワーロックス〟と名乗っていた。

しかし東海岸にて同名バンドがレコーディングしたという情報を聞きつけ、〝グレイトフルデッド〟にバンド名を変えることとなる。

なんとこの東海岸ワーロックスが後のThe Velvet Undergroundである。

アメリカ東西を代表するサイケバンドが元々同じバンド名を名乗っていたこの話は有名であるが、この奇跡すぎる話は何度噛んでも味のする好きな話だ。

 

グレイトフルデッドと名を変えたバンドはケン・キージーのアシッドテストにてホストバンド的立ち位置でライブを始める。

 

LSD研究室

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サンフランシスコのサイケデリック及びLSDの普及には2人の重要人物が絡んでいる。

1人がケン・キージーという作家である。

62年に『カッコーの巣の上で』というLSD体験を元に書かれた小説で作家としてデビューしたケン・キージー〝メリー・プランクスターズ〟と呼ばれるヒッピーコミューンのリーダーであった。彼とプランクスターズはまだLSDがまだ合法であった64年に〝ファーザー〟と呼ばれる虹色にカラーリングされたバスに乗って全米にLSDを広めるツアーを行ったのだ。それは〝アシッドテスト〟と呼ばれ、ビートルズ〝マジカルミステリーツアー〟のモデルとなったことでも有名である。

カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で

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そのアシッドテストの一環として行われたライブのいくつかでグレイトフルデッドはライブをし、LSDサイケデリックの普及に貢献したのだ。66年1月にはサンフランシスコにてアシッドテスト『トリップ・フェスティバル』が開かれ、入場者全員にLSDが配られるそのフェスでグレイトフルデッドはジミヘンと共に即興演奏によってヒッピー達をトリップさせた。このフェスティバルはサイケデリックロックの始まりと位置付けられている(曲としてのサイケデリックロックは数ヶ月後のバーズ〝霧の8マイル〟が最初)。

そしてサンフランシスコのLSDを取り仕切っており、アシッドテストへのLSDの供給を行っていたのが《アシッドキング》と呼ばれるサウンドエンジニアのオウズリー・スタンリーという男であった。

グレイトフルデッドサウンドの要という立場でありながら《アシッドキング》であるオウズリー・スタンリー、スタンリーの作るLSDと共にグレイトフルデッドの存在を広めるアシッドテストを行ったケン・キージーの2人はデビュー前のグレイトフルデッドにとって切っても切れない重要なパイプであった。

この時期のことをジェリーガルシアはこう語っている。

私たちは当時オウズリーの恩寵を受けて生きているだけだった...(彼の)トリップは私たちのための機材をデザインしたかったことであり、そして私たちは彼がそれをするために研究室の状況でいなければならないつもりだった。(Wikipedia)

LSD実験、アシッドテストの研究室としての役割を果たしていたグレイトフルデッドはその副産物としてサイケデリックロックを生み出し、《デッドヘッズ》と呼ばれる密接なファンを獲得していく。

デッドヘッズ

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グレイトフルデッドのバンド運営方法から学ぶ現代の会社経営』みたいな記事を読んだことがあるが、グレイトフルデッドのバンド運営は他のバンドとは一味違っていた。

その最大の特徴は客にライブの録音とその音源の共有を許可したことにあるだろう。海賊盤にシビアであった当時の音楽界では考えられないことである。録音と共有を許可したことで放っておいてもファンが勝手に宣伝してくれるわけで、そのことが目先の金より将来的な成功を生んだのだ。

ライブ音源や写真を交換し合うことでファン同士に仲間意識を芽生えさせ大きなコミュニティを形成していき、そのヒッピー集団は〝デッドヘッズ〟と呼ばれ、今でもそのコミュニティは根強く存在している。

デッドヘッズ達は車に生活品を詰め込んで車上生活をしながらタイダイ染めのTシャツを着てグレイトフルデッドのツアーに着いて回った。

 

グレイトフルデッドはデッドヘッズを客としてではなく仲間として扱っていた。初期の頃のサンフランシスコのヘイト・アシュベリーでは身を削りデッドヘッズに無料の食事、宿泊、音楽、そして健康管理をも提供していたという。さらにはチケットの売買にもバンドがしっかりと関わり、貢献度の高いデッドヘッズにはライブにて良い席を用意するなどデッドヘッズを競わせることでコミュニティを拡大していったのだ。計算高いのか、ラブ&ピースすぎた結果上手くいったのか、ハッキリとは言えないがバンドサイドにかなり優秀な策略家が居たことは間違いないだろう。インターネットのない時代に強いネットワーク力で見事にファンを繋ぎ止めることに成功したのだ。

 

しかしライブ録音を許可したからといって普通はここまでファンの熱が燃え上がることはないだろう。ヒットチャートにほぼ無縁でありながらアメリカで常にトップのライブ動員を誇ってこれた理由はやはり彼らの音楽性にあるだろう。

ジャムバンド

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デッドヘッズ達が録音に夢中になり、そのコレクションを共有したのはグレイトフルデッドのライブが常に即興演奏で成り立っていたからだろう。彼らは同じ内容のライブを2度とすることがなかったので、全てのライブの音源に価値が生まれた。

 

グレイトフルデッドは67年に「The Grateful Deadでレコードデビューし、68年に2nd「Anthem Of The Sun 」、69年に3rd「Aoxomoxoa」をリリースした。音楽性はカントリー、フォーク、ブルース、ブルーグラス、ジャズなど他ジャンルを混ぜこんだものである。

良質なフォークロック、ブルースロックであると思うし2nd以降はサイケデリックな音使いも見られ芸術的発展も見受けられるが、彼らの真骨頂はやはりライブ演奏であった。

彼らはスタジオ音楽を曲の完成形とみなさず、ライブでの即興演奏による発展にてその日その日の曲の姿を示した。サイケデリックの賜物と言える音への没入をライブにて試みることで、3分弱の曲が20分を超えることも珍しくなく、ライブの総時間は8時間にも及ぶ日もあったらしい。

 

そんな彼らのサイケデリック全盛期のライブ盤が69年の「Live Dead」である。

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グレイトフルデッドがどんなバンドかを知りたければまずこのアルバムを聞くべきだと紹介される名盤だ。69年頭のフィルモアエストとアヴァロンボールルームでのライブ音源で構成されている。23分に及ぶ〝Dark Star〟やギターのフィードバックのみによるセッション〝Feedback〟などグレイトフルデッドの真骨頂といえるサイケデリックジャムを聞くことができる。ドラムが2人いるのも大きな特徴だ。

正直僕は「ジャム最高!やっぱジャムが1番!」と言える性格ではなく、しっかり作品として試行錯誤を重ねたサイケデリックソングの方が好みであるが、やはりグレイトフルデッドにはシビれる。真のサイケデリック、真のヒッピーは間違いなくこのバンドであるだろう。真のサイケデリックが最高のサイケデリックであるかは置いといてね。

 

ではグレイトフルデッドにしっかりとした〝作品〟としての音源はないのかというとそうでもなくて、この次の70年4th「Workingman's Dead」と5th「American Beauty 」がそうであると言えるだろう。

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特に「American Beauty 」は僕も好きなアルバムで、70年となると世間のサイケデリック熱も落ち着き始めたころでそれに合わせてか落ち着いたカントリーロックやフォークロックに仕上がっている。ソングライティング能力と美しいハーモニー、ジェリーガルシアのクリーンなギターなどいい意味で〝普通のバンド〟っぽいアルバムだ。ちょうど結成したCSN&Yっぽい音楽と言えばわかりやすいだろうか、まさにタイトル通りの〝アメリカ〟なアルバムである。

American Beauty

American Beauty

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その他偉業

で、僕が把握してるのはその70年「American Beauty 」までであるんだけど、他にも偉業はある。

まず自身のマスターテープと出版権を所有するバンドの先駆けとなったこと。これは当時珍しいことで、この事と20年30年経っても揺るぐことない絆で結ばれたデッドヘッズ達によって70年代も80年代も90年代もアメリカでトップクラスのライブ動員があったことで、グレイトフルデッドは《ビートルズより稼いだバンド》とも言われている。

 

あとはライブのPAシステムの発展に貢献したこと。《アシッドキング》オウズリー・スタンリーは70年についにLSD製造の罪で逮捕されることになるが、彼の仕事はLSDの売人だけではなくサウンドエンジニアであった。

ライブ命のグレイトフルデッドにとってライブ音響は非常に重要な事項であり、当時劣悪であったライブ音響技術を試行錯誤を繰り返し改善していった。その結果《ウォールオブサウンドと呼ばれるPAシステムを作り上げ、ライブPAシステムの改善に貢献したわけだ。詳しい内容は分野ではないのでわからないが、それは現代のシステムにも繋がるものであるようだ。

《ウォールオブサウンド》と言えばフィルスペクターのスタジオワークが有名であるが、ライブ版《ウォールオブサウンド》の発明はグレイトフルデッドによるものなのである。

終わり

ま、こんなとこだろうか。

とにかくグレイトフルデッドのライブが堪能できる名盤「Live dead」は必聴。

あと「American Beauty」かな!良きカントリーロック、フォークロックが聞けます!

アメリカの人気と日本での人気の格差が大きい代表的なバンドでもあるので、アメリカでの異常なほどの人気は日本ではピンとこないが、ヒッピー文化と共にグレイトフルデッドを1度体感してみてみるのもいいんじゃないでしょうか!

 

グレイトフルデッドのメンバーはサンフランシスコ界隈、西海岸界隈にて様々なバンドと関わっているので次回サンフランシスコサイケデリックを見ながら図を繋げていけたらと思います、さいなら!

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