ケンジロニウスの再生

ロック史を追いながら関連図を作成(関連図挫折中)

10-10 デヴィッド・ボウイとマーク・ボラン(第75話)

ボウイ。前回は69年2nd「David Bowie(Space Oddity)」まで書きました。

その続きから。

69年の11月にリリースされた2ndDavid Bowie(Space Oddity)」はボウイのアイデンティティが詰まったものとなったが、英5位のボウイ初ヒットシングル〝Space Oddity〟の勢いのまま大ヒット!とはいかず、イマイチの結果となった(72年の再発時にはヒット)。

何とか巻き返したいボウイはデラム時代の曲である〝London Bye Ta-Ta〟を次のシングルに、とレコーディングに取り掛かる。がしかしそのセッションで新たに生まれた〝The Prettiest Star〟が70年3月にシングルとしてリリースされることになる。

 

〝The Prettiest Star〟

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僕は基本的にアルバム史上主義でシングルまでは掘ってないのでこの〝The Prettiest Star〟73年6th「アラジンセイン」の収録曲という印象が強いが、このタイミングでシングルとしてリリースされていた。

ボウイは前の恋人であるヘルミオーネと別れ69年頭にベックナムに移り住んだ後、69年4月にアンジェラ・バーネット(アンジーと出会っている。それから1年も経たずに2人は結婚するわけだが、この〝The Prettiest Star〟をプロポーズの際電話口で歌ったと言われている。【君は冷たい炎以外全てを持っている】という独特の言い回しで始まるこの曲でアンジー口説き落としたのだ。

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(ボウイと母とアンジー

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アンジーは積極的にボウイの仕事に関わっていく、いわゆるオノ・ヨーコ的タイプの女性でそのことをボウイのマネージャーであったケネス・ピットは良く思ってなかったようで。そんなこともあってかケネス・ピットは次のシングルに〝London Bye Ta-Ta〟を推し続けたが結果的に〝The Prettiest Star〟がリリースされた。このことが引き金となったかどうかは定かではないが、ボウイとピットの間に不信感が生まれ70年中にピットは解雇されることとなる。

 

そんなこんなでリリースされた〝The Prettiest Star〟グラムロックの幕開けを示すかのような名曲であるがこれまた全く売れず。しかし売れたか売れないかよりもこの曲において最も重要な要素はこの後70年代前半をボウイと共にグラムスターとして駆け抜けるボウイの無二のライバル、マーク・ボランがギターで参加していることだろう。

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10-10 ボウイとボラン(第75話)

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(77年TV番組『マーク・ショウ』にて)

グラムロックの二大スターとして君臨するボウイとボラン。アートロックをグラマラスに魅せたボウイと、R&Rやブギをグラマラスに魅せたマーク・ボラン及びT-Rexは互いに影響を与え合いながら高みへと昇った良きライバルである。

2人のエピソードとして有名なのはマーク・ボランの死後の話で。77年、ボランは29歳で自動車事故でこの世を去るがその時車を運転してたのがT-Rexのキーボード兼コーラス、そしてボランの愛人であったグロリア・ジョーンズ。グロリアは生還したが事故後ボランとの間に誕生していた息子のローランと共に路頭に迷うことになる。グロリアとボランの同棲は6年にも及んだものの、ボランの遺産の全ては本妻へ渡ったわけだ。そこに救いの手を差し伸べたのがボウイで、母子の衣食住に生活費、ローランの学費の全てを長年に渡り援助した。

このエピソードはボウイの人情深さや2人のグラムスターの友情を表す有名な話であり、僕もこのエピソードを知ってボウイとボランが親友であったと知ることとなった。が、少し調べてみると《親友》というわけではなさそうなのね。

 

出会いは64年2人がまだ17歳のころで、レスリー・コンという当時の2人の共通のマネージャーによって事務所のペンキ塗りに共に雇われた場であったという。ボランはボウイに「お前の靴サイテーだな」と言い放ったらしい。そこから長年のライバルになるわけだ。

マーク・ボランは65年にソロデビュー。67年にサイケバンドJohn's Childrenを経て68年にスティーブ・トゥックと共にアシッドフォークユニットTyrannosaurus Rexを結成。70年にT-Rexに改名、71年「Electric Warrior」72年「The Slider」でグラムスターとなる。

Electric Warrior [Analog]

Electric Warrior [Analog]

  • アーティスト:T. Rex
  • Polydor
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一方ボウイはここまで書いてきたように64年にDavy Jones With The King Bees名義でデビューしてから長らく鳴かず飛ばずの不遇の時代を過ごす。69年〝Space Oddity〟のヒットが起死回生となり71年「ハンキードリー」72年「ジギースターダスト」でグラムスターとなる。

ボランのTyrannosaurus Rexがトニー・ヴィスコンティプロデュースの元68年にリリースした1stアルバムはUKアルバムチャート15位を記録。70年に改名するまで4枚のアルバムをリリースするがアコギとパーカッションのアシッドフォークユニットというコアな音楽性でありながら割と売れていたと言えるだろう。

そんなTyrannosaurus Rexの69年2月のライブの前座にボウイが出演している。ただしパントマイマーとして。トニー・ヴィスコンティによると「ボランは音楽的に成功していなかったボウイにパントマイマーとして前座をさせることにサディスティックな喜びを感じていた」らしい。なかなか。

その後ボウイは〝Space Oddity〟がヒット。トニー・ヴィスコンティのプロデュースで69年末に2nd「David Bowie(Space Oddity)」をリリース。それに続く70年3月のシングル〝The Prettiest Star〟のセッションにトニー・ヴィスコンティはボランをギタリストとして起用し、ここでやっとミュージシャンとして同等の目線で対峙したわけだ。

 

さぁその〝The Prettiest Star〟だが正にマーク・ボラン、正にT-Rex的なギターメロを聴くことができる。ただ、Tyrannosaurus Rexとして活動していたこの時期のボランはほぼアコギしか弾いておらず《エレクトリック・ブギ》と呼ばれることになるレスポールでのエレキギタースタイルは確立していなかったはず。このトニー・ヴィスコンティが引き合わせた2人のセッションが双方のグラムロックへの道の出発点、グラムロックのビッグバンとなった可能性は大きいんじゃなかろうか。

しかしこの時代のロックスターの伴侶というのは気が強い女性が多いもので、このレコーディング時にボランの妻であるジューンはボウイに対して「マークのギターは素晴らしすぎてあなたには勿体無いわ」と言い放ったという。

 

2人は〝親友〟というよりは正に〝ライバル〟であり、特に虚栄心の塊であるボランはパフォーマンスも込みだとは思うが事あるごとにボウイを目の敵にしまくっている。73年にはインタビューで「デヴィッドはおれの足元にも及ばない」「デヴィッドには才能がない、ロッドスチュアートにもエルトンジョンにもミックジャガーにもそれなりのものがあるが、残念ながらデヴィッドには何もない」とまで罵っている。

ボウイの2ndアルバムをプロデュースし、70年にはThe Hypeと名乗るバックバンドの一員にまでなり3rd「世界を売った男」をプロデュースしたトニーヴィスコンティがその後ボウイの元を離れたことには、ボランの異常なプライドと虚栄心が少なからず関わっているのだろう。《同じプロデューサーの元でグラム界を仲良く盛り上げる2人のスター》とはいかなかったわけだ。

しかしその関係性が互いを刺激し71年72年73年と双方がグラムロックの名盤を連発することに繋がった。

 

2人の和解は77年9月、ボランが事故死する1週間前であった。73年,少なくとも74年にはグラムロックブームは下火になりボウイはソウル路線へ転向、ボランは苦しむことになる。

77年に「地下世界のダンディ」をリリースしたボランにTV番組のオファーが来る。それはボランを司会として毎回ゲストと共に演奏したりする『MARC(マーク・ショウ)』という全6回の音楽番組となった。10cc、クイーンのロジャーテイラー、ジャムなどがゲストで出演し、その最終回にベルリン3部作の2作目「ヒーローズ」リリース間近のボウイが出演したのだ。ボウイが〝ヒーローズ〟を披露した後、2人が共に〝スタンディング・ネクスト・トゥ・ユー〟という共作?曲を演奏。共にギターを弾く長いイントロの後歌い出しのところでボランがステージから転倒し演奏中断、2人で大爆笑、で番組が終わる。そんなお茶目な締めくくりをした番組収録の9日後にボランは事故死した。この和解の後のさらなる何かしらのコラボレイトを想像すると本当に残念でならない。

 

以上

がボウイとボランの簡単な物語である。

ボウイの70年3月のシングル〝The Prettiest Star〟はヒットはしなかったが、グラムロックの幕開けに位置するセッションだ(B面は「David Bowie(Space Oddity)」への収録を見送られた〝Conversation Piece〟)。

その後ボランはT-Rexに改名しバンド形態で《エレクトリック・ブギ》をかましまくる。それに触発されたボウイはバンド体の重要性を感じ、ミック・ロンソン、トニー・ヴィスコンティThe Hypeを結成しそれがスパイダー・フロム・マーズへと繋がって行く。次回はその辺を!

ボランについてはまた詳しく書けたら!ボウイとボランについてはトニーヴィスコンティの自伝にもっと詳しく書いてそうなので読んでみようかと思う。

ちなみに僕は〝The Prettiest Star〟は73年「アラジンセイン」でのスパイダー・フロム・マーズバージョンの方が好きかな。

少しテンポを上げて、コーラスを追加し、よりグラマラスにリアレンジしつつ、ボランのギターフレーズをしっかりミックロンソンが継承している、名曲。イエローモンキーの〝This is for you〟は明らかにこの曲が元ネタですね!ってか調べてたらイエモンのラストシングル〝プライマル〟ってトニー・ヴィスコンティがプロデュースしたのね、ほぇー。

では!!

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