2011年公開のジョージ・ハリスンのドキュメンタリー映画『George Harrison: Living in the Material World』を観た感想(ってかまだ今3周目観てる)、前回の続きです。
前回↓
最近流行った『ボヘミアンラプソディ』のように激似俳優を使ったドキュメンタリー風映画よりも実際の映像やインタビューを使ったドキュメンタリー映画の方が好きだという話は前回したが、どちらにせよ音楽ドキュメンタリーの醍醐味は〝曲〟にこそある。本人の過去映像や深い知人によるインタビューは彼の人生を知るためにもちろん必要なアイテムであるが、彼の残した〝曲〟というのは彼の人生のドキュメントそのものだ。
〜垂直に立つ〝曲〟〜
前に友人がこんなことを言っていた。
「詩とは真実に対して垂直に立つものである」
これは稲垣足穂の言葉だか、それを引用した中嶋らもの言葉だか、確かそんなことだったと思うが、この言葉は僕の心に垂直に突き刺さった。これは「詩というのは抽象的な文」という雑で幼稚な考えを吹き飛ばす説得力に溢れた言葉であった。何かしらの出来事、それに対しての感情の動き、時間軸に沿って平行に存在する〝事実〟。それに対して垂直に立っているのが詩でありそこにこそ〝真実〟が内包されているというのだ。いや、引用元を全く読んでないので解釈あってるかわからないが。
それと同じように〝曲〟は人生に垂直に立っていると僕は言いたい。
音楽ドキュメンタリーは基本的に過去映像やインタビューで語られる〝事実〟や〝歴史〟とそれに関連深い〝曲〟とを交互に配置しながら展開していく。僕は音楽ドキュメンタリーにおいて過去映像やインタビューで時間軸と共に平行に説明される〝事実〟に対して垂直に〝曲〟がカットインしてくる瞬間にたまらなく鳥肌が立つ。『George Harrison: Living in the Material World』はそのタイミングが秀逸で、3時間30分という長さにもかかわらずもう3回も観てしまっているというわけだ。
さて、そんなわけなので3時間30分におよんで語られるジョージの人生に対して曲を差し込むタイミングと選曲は非常に大切である。これはジョージを深く理解し愛していなければできることではない。それを見事にやってのけた監督がマーティン・スコセッシだ。
〜マーティン・スコセッシ〜
とにかく映画に疎く、映画監督なんて基本的に気にしたこともないが調べてみるとこの人かなり有名な人物らしいのね。
監督作品を見てみると『タクシー・ドライバー(1976)』や『キング・オブ・コメディ(1983)』『ハスラー2(1986)』あたりは聞いたことがある。
ドキュメンタリー映画も多数手掛けており、The Bandの『ラストワルツ(1978)』、ボブ・ディランの『ノー・ディレクション・ホーム(2005)』、ローリング・ストーンズの『シャイン・ア・ライト(2008)』もマーティン・スコセッシが監督らしい。ロックドキュメンタリーに精通した人物であるようだ、なるほど。ちなみに上の3作は観た、忘れてたがストーンズの『シャインアライト』は映画館で観た。前回ドキュメンタリーあんまり観てないと書いたが、忘れてるだけで意外と観てるのかも。
続!『George Harrison: Living in the Material World』を観て
さてそろそろ本題の『George Harrison: Living in the Material World』の内容の話を。
前回はビートルズの崩壊にジョージの作曲家としての覚醒が大きく関与しているという話と、その予兆と素質はデビュー前のハンブルク時代からあったという話をした。
極初期のビートルズのバランスはジョンとポールの間にジョージが入ることで成り立っていた。クラウス・フォアマン曰く「ジョージはビートルズの触媒だった」のだ。
「ビートルズは〝家族バンドのようだった〟」「気味が悪いくらいに一体感があった」と語るのはジョージの親友エリック・クラプトン。個人的にクラプトン自体はそこまで好きではないんだけど、ジミヘンのドキュメンタリーにせよインタビュー受けてるクラプトンはカッコ良すぎる。仕草とか表情とか、自然体でよく笑うし、余裕と自信に溢れてる。インタビュー受けさしたら右に出るやついないんじゃないかな(笑)。ジョージと出会った頃のことを振り返って、「ビートルズはまるでアーサー王のような暮らしをしていて、僕はさしずめ一匹狼のランスロットだった。」とか(笑)。
みなさんご存知ビートルズはデビューして間も無く世界中のアイドルとなる。ツアー中ライブ以外ホテルから一歩も出られない程に。「だから4人はいつも一緒だった」とリンゴ。絆は日に日に深まっていったという。
しかし晩年期にはポールとジョージが対立関係になることが多くなり、その間を取り持つのはリンゴであった。この映画でもリンゴは「仲直りはいつも僕の家だった」と語っている。『Let It Be』の映画での有名なポールとジョージの口喧嘩のシーンではいつもひょうきんなリンゴも頭を抱えて辛そうな顔をしており(喧嘩よりこのリンゴを見るのが辛い)、ジョンはと言えばぼーっと宙を見て心ここにあらず、といった感じだったな。
ジョンの「キリスト事件」を始めとする様々な騒動や混乱に疲れ果てて66年以降ビートルズは一切のツアーを行わなくなる。ストレスから解放され、音楽に集中する時間は増えたがその分4人だけが共有できた苦悩で繋がれた絆は緩み始める。ジョージは作曲を始め、それができるようになってからミュージシャンとしての主張が強くなっていった。しかし〝基本的に作曲者がアレンジの指揮を取る〟というルールに従いギタリストとして折れることがしばしば、なのに自分の曲ではみんな手を抜いたり実験の場として使おうとする、アルバムに収録されるのもほんの1,2曲。そうやって日に日にジョージのストレスは溜まっていった。
こうして格下扱いを受けていた可哀想なジョージだが、彼がビートルズに持ち込んだものはたくさんある。言い方を変えれば他メンバーはその点ではジョージを非常に評価していたと言える。ほんとに格下扱いをしていたら彼の持ち込もうとしたものも突っぱねてたろう。
〜シタールとの出会い〜
ジョージがビートルズに持ち込んだものの一つがシタールとインド音楽だ。
ジョージがシタールと出会ったのは65年4月の映画『Help!』の撮影時である。最初の妻パティ・ボイドと出会ったのが64年『A Hard Day's Night』であるので、ジョージはビートルズ映画で人生を変える大事なものと2度出会ったことになる。
シタールにシンパシーを感じたジョージはすぐに購入し65年末「ラバーソウル」収録の〝ノルウェーの森〟で披露した。実はこれより先にヤードバーズやキンクスがインド音楽に興味を持ちシタール風サウンドを導入していたが、実際にシタールを演奏し発表したのは〝ノルウェーの森〟がポップミュージックで最初の曲となる。
〜ラヴィ・シャンカールとの出会い〜
この後ジョージはシタール・マスターのラヴィ・シャンカールというインド人と出会うことになる。これまた先に出会ったのはバーズのデヴィッド・クロスビーだったよう。
ジョージはラヴィからシタールと思想を学ぶ。「いろんな人と会ってきたが感銘を受けたのはラヴィが初めてだった」とジョージは語っており、音楽的にも精神的にも大きく影響を受けることになる。
「音楽とは魂を神へと導くものである、グレゴリオ聖歌もバロック音楽もインド音楽も民謡も」
ふむ。
「悪魔へと導くものもあるけどね」
と笑いながら答える茶目っ気もある、ロックンロールを指しているのだろうか、ラヴィのインタビューは面白い。
そうした思想とシタールを本格的に学んだジョージは66年「リボルバー」での〝Love You To〟、67年「サージェント・ペパーズ」での〝Within You Without You〟で完全なるラーガロックを披露。
68年には映画のサントラではあるがビートルズのメンバーで初めてのソロアルバム「不思議の壁」でさらに存分にインド音楽を披露した。このセッションの余った時間に〝The Inner Light〟がレコーディングされ、この曲が68年3月のシングル〝レディ・マドンナ〟のB面曲に選ばれた。B面ではあるがジョージの曲では初のシングル曲となり、この曲はポールもジョンも絶賛、元々シングル候補曲であったジョンの名曲〝Across The Universe〟を候補から外すほどに。
この〝インナー・ライト〟という曲を恥ずかしながら僕は知らなかった。アルバムでは「パスト・マスターズVol.2」に収録されているんだけど聴いてなかったのだ。映画で流れてきた時に「なんじゃこの曲!」と衝撃。この取りこぼしていた名曲と出会えただけでこの映画を観た価値有り。
《ジョージ=インド/シタール》のイメージは強いが、そう言えば68年末の「ホワイトアルバム」からはシタール曲がないのだ。シタールを弾かなくなった理由を映画でジョージ自身が語っていた。
ラヴィに「自分のルーツを大事にするべきだ」と言われたこと。自分のルーツを考えた時思い浮かんだのがバイクと〝ハートブレイク・ホテル〟だったこと。そしてその頃バーでクラプトンとジミヘンと偶然会った時に「ギタリストに戻らないと」と思ったこと。シタールではインド本家の奏者には敵わないと悟ったこと。
バイクが好きでエルヴィスが好きでギターを手にしビートルズを結成しスターになった、自らがギタリストであることを思い出したジョージはそれ以来シタールを一切弾いてないという。
このことの他にもジョージ本人のインタビューはいくつかあって(既出のものなんだろうがいつ撮られたものなんだろう)、ラヴィと2人でインタビューに応じる映像もある。とにかくラヴィ・シャンカールの魅力は画面越しでもエグいほど伝わる、愛深き優しい人であることがビンビン伝わる。ちなみにラヴィ・シャンカールが60歳の頃に授かった子供がノラ・ジョーンズであることは有名だけど意外と知らない人多い。
〜ジョージと精神世界の探究〜
65年に出会ったシタールとは68年に別れるわけだが、同時期に出会ったインド哲学、東洋思想とは生涯の付き合いとなる。
「神を信じているのにそれを感じれないのなら、偽善者か無神論者になるべきだ」
カトリックの家で育ち何となくキリスト教を信じていたジョージはラヴィやラヴィの兄弟から借りた本に書かれていた言葉に感銘を受けたという。〝神を感じる〟ことが重要であると考え始めた。
「神を感じれないのなら、今すぐ自分を変えるべきだ」
ジョージは「変化こそが人生だ」と語る。〝神を感じるか否か〟が最も重要でありそのために環境や行動を変化させていった。ラヴィの元で〝魂を神に導く音楽〟を学んだり、瞑想をしたり、だ。
〜LSD〜
カウンターカルチャー真っ盛りの66,67年ごろ、ビートルズも例に漏れずLSDの虜となった。当時のジョンとジョージとのLSD体験をインタビューで語ったのはジューン・テイラーという女性。ビートルズの広報担当であったデレク・テイラーの妻だ。
デレク・テイラーはデビュー当時からビートルズと親密な関係にあり、広報担当となったが64年にマネージャーのブライアン・エプスタインとの確執からリタイアしカリフォルニアに移り住んだ。カリフォルニアではバーズやビーチボーイズの広報として活躍し、68年にビートルズが自身の会社〈アップル・コア〉を立ち上げた時にビートルズの元に戻り解散まで付き添った人物。
ブライアン・エプスタインから「別荘を購入したので仲間を呼んでパーティをしたい」と報を受け飛行機に飛び乗ったテイラー夫妻をロンドン西のヒースロー空港で待ち受けたのはエキゾチックに着飾ったジョンとジョージ。ジョンとジョージはそれぞれサイケペイントを施したロールスロイスとミニ・クーパーに乗ってやってきたようで、ジョンのカーステからはプロコルハルムの〝青い影〟が流れていたとう。〝青い影〟は67年5月にリリースされたので時期的には67年夏の話だろうか。ジョンが〝青い影〟について「今の音楽シーンにこの曲以外聴く価値がない」と言ったという話は有名だが、実際に聴いていたシーンをジューン・テイラーの口から語られたことに少し感動。そしてブライアン邸でみんなでLSDを嗜み精神世界を旅し、その後英国式庭園で夜明けを待ったそうな。
ジョージはLSDについて「人生において最高の瞬間が凝縮されたような感覚だった」と語り、その最中に〝ヒマラヤのヨギ(行者)〟の姿を見たという。
ジョージは音楽や瞑想と同様に〝神〟や〝魂〟といったものを知覚するためのものとしてLSDを使っていたんだろう。これはカウンターカルチャー全体における《ドラッグ礼賛》の大きな〝建前〟でもあった。
〜ヘイトアシュベリーへの失望〜
67年夏にジョージはヒッピーの聖地でありサマー・オブ・ラブ真っ盛りのサンフランシスコ・ヘイトアシュベリーを訪れる。ジョージは自分と同じ志を持った若者がひしめき合ってるだろうヘイトアシュベリーに大きな期待を持っていた。
しかしそこで見たのは期待外れの〝怠け者〟の集団。皆が皆〝精神探究〟を目的としてLSDを使ってるわけではなく、《ドラッグ礼賛》の負の側面を目の当たりにした。ビートルズはこの頃「サージェント・ペパーズ」をリリースしたばかりでカウンターカルチャーの最先端を行ってる存在であり、ジョージはヘイトアシュベリーの若者に熱烈に歓迎された。その〝怠け者〟の集団の瞳の奥に《ビートルズ狂(マニア)》的なモノを見たジョージは恐怖を感じ逃げるようにヘイトアシュベリーを後にしたという。それ以来ドラッグを辞めて〝神を感じるため〟の行いは瞑想一本に絞ることになる。
〜さらなる精神世界の探究〜
LSDに見切りをつけたジョージは妻のパティ・ボイドからマハリシという人物の話を聞く。
マハリシはヒンドゥー教由来の超越瞑想(TM)を世に広めるべくアメリカやイギリスを回っていた人物であり、ヒッピーの〝3大グル(導師)〟に数えられるグルである。
ジョージはこれに感銘を受けビートルズのメンバーを連れてマハリシのセミナーに行く。ビートルズを長年導いたマネージャーのブライアン・エプスタインが急死したのがちょうどこのセミナーの最中だったらしい。ジョージはこの時のことを「運命だと思った」と振り返っている。
68年2月にビートルズはドノヴァンとマイク・ラヴと共に本格的に超越瞑想を学ぶためにインドへと飛ぶ。有名な《ビートルズのインド訪問》だ。こうゆうのにちゃんとメンバーが付いてくるのがビートルズの素晴らしいところ。ちゃんと最年少ジョージの感性を認めているのだ。
リンゴは食事が合わずすぐに帰国、ポールは予定通り1か月で帰国、ジョージとジョンは4月半ばまで滞在した。
ジョージとジョンはかなり近い感性を持っていたことを映画を観て感じた。この超越瞑想にハマったのもそうだし、70年代以降もジョンは〝ラヴ&ピース〟に特化したものの精神性に重きを置いた生き方をしている。それぞれのソロではクラプトンやクラウスフォアマン、ビリー・プレストンなどのミュージシャンを共有してたし、オノ・ヨーコ曰く「ジョンは常にジョージを気にしていた」らしい。
〝マハリシとビートルズの別れの話〟はややこしいのでここではスルーさせてもらう。マハリシとは絶縁となったものの1番滞在の短かったリンゴや1か月で帰ったポールでさえマハリシが授けたマントラ(真言)と瞑想法には感銘を受けたらしく何十年も続けているとかいないとか。
インドから帰国するとビートルズは「ホワイトアルバム」を、ドノヴァンは「ハーディ・ガーディ・マン」をマイク・ラヴはビーチボーイズで「フレンズ」をそれぞれインドでの体験を活かした名盤を生み出した。
マハリシと絶縁した後もジョージはさらに深みを目指してクリシュナ教(国際クリシュナ意識協会)に接近。
クリシュナ教はヒンドゥー教の神の1人であるクリシュナを讃える当時新たに布教しはじめたバクティベダンタ・スワミを開祖とする宗教団体である。まずニューヨークに拠点を置き、次にサンフランシスコのヘイトアシュベリーに寺院を作った。サンフランシスコで布教のために行った〈マントラ・ロック・コンサート〉にはグレイトフルデッドやジェファーソンエアプレイン、モビーグレープなんかも出演したそう。「ハレ・クリシュナ」というマントラを合言葉に続々と信者を増やし、バクティベダンタ・スワミはすぐさまアメリカ西海岸のヒッピーのカルトヒーローとなったのだ。
《ハレ・クリシュナ運動》と称した布教活動はロンドンにも進出した。バクティベダンタがロンドンに送り込んだのは3組の夫婦、6人。そのロンドンでの布教を手助けしたのがジョージだった。ジョージはクリシュナのロンドン寺院を作るために尽力し、さらにジョージは自らのプロデュースでクリシュナのマントラをレコーディングし〝ハレ・クリシュナ・マントラ〟としてビートルズが立ち上げた〈アップル・レコード〉からThe Radha Krsna Temple名義で69年7月にリリースした。これがシングルチャートで1位を取りロンドンでの《ハレ・クリシュナ運動》に成功する。これが1位を取るんだからカウンターカルチャーってすごい。71年にはアルバムもリリースするが、これが結構良いのよね。
クリシュナ讃歌と呼べる音楽であり、マントラや瞑想に興味がなくともワールドミュージックとして十分に満足できるアルバム。クーラシェイカーの歌った〝Govinda〟がクリシュナ讃歌であったこともこのアルバムから確認できる。The Radha Krsna Templeの1人、ムカンダ・ゴスワミがこの映画にインタビューで登場。クリシュナ意識協会の間ではジョージは《隠れ信者》と呼ばれていたらしい。これだけクリシュナのために尽力したものの戒律の厳しいクリシュナ教にはジョージは入信せず(煙草が吸えないかららしい)、髪も髭もボーボーのままの隠れ信者であり続けたのだ。クリシュナと言えば英プログレフォークのスパイロジャイラのマーティン・コッカーハムも夢中になったことをこのブログでも書いたはず。
まだ続く……
書ききれないのでまだ次回に。
今回はほとんどジョージが精神世界へとのめり込んで行く話でしたが、次回は物質世界と精神世界の間で苦しむジョージの話を。あとビートルズ解散とソロの話もチラッとできれば。
ラヴィとシタールの話やLSDとヘイトアシュベリーの話、マハリシとインドの話、クリシュナの話、これがほんの2〜3年の間の話で、しかものその間にもビートルズはアルバムを数枚リリースしてるし、ジョージはまだ25歳くらいだし、なんて濃い人生なんだ!!と薄っぺらい我が人生と比べて落ち込んでおります。
では今回はこの辺で!