ケンジロニウスの再生

ロック史を追いながら関連図を作成(関連図挫折中)

映画『ローレルキャニオン〜夢のウエストコーストロック〜』を観て

エストコーストロックリバイバル運動の匂い

『ZAPPA』リンダ・ロンシュタットサウンド・オブ・マイヴォイス』『ローレルキャニオン〜夢のウエストコーストロック』『エコー・イン・ザ・キャニオン』。この2022年の4,5月にどういうわけかウエストコーストロックにまつわるドキュメンタリー映画が集中的に公開された。といっても『ZAPPA』は2020年の作品で、『リンダ・ロンシュタット』は2019年、『ローレルキャニオン』は2020年、『エコーインザキャニオン』は2018年の作品だ。それがこの春数年遅れでまとめて同時期に日本で公開されたわけで、何やらウエストコーストロックリバイバル運動みたいなものが起こっているとしか考えられない。特にローレルキャニオンを舞台とした作品が2作も同時に公開されているのは驚きだ。もっと言うとフランクザッパもリンダロンシュタットもローレルキャニオンにまつわる人物であるし。

ローレルキャニオン

ローレルキャニオンというのはLAのハリウッドにある山岳地域のことで、そこに60年代半ばから70年代頭にかけてLAで活躍する多くのミュージシャンが住んでいた。LAの有名バンドが多く出演した〈ウイスキー・ア・ゴーゴー〉などがあるサンセット大通りからも近く、LAの都市部からも5分ほどのところにあるにもかかわらず、緑豊かで静かで神秘的な場所として知られている。一説によるとザッパがローレルキャニオンに引っ越してきてからLAロックミュージシャンの棲家としての風習が始まったらしく、続々とミュージシャンが移り住みロックコミューンが形成されていった。バーズからイーグルスまで、そこにはあらゆる物語が夢のように出現した。

60年代末と言えばサンフランシスコのヘイトアシュベリーに続々とヒッピーやミュージシャンが移り住み、フラワーでサイケデリックなシスコロックを盛り上げた。ローレルキャニオンも同様に、何かしらの引力が働きミュージシャンが集まったわけだが、ヘイトアシュベリーが自由でフラワーな〝楽園〟だとすればLAのローレルキャニオンは〝妖精の隠れ家〟のようなもので、どちらかというと同じく同時期にディランやザ・バンドがで隠れていたニューヨークのウッドストックの方が近いのかもしれない。ヘイトアシュベリー、ローレルキャニオン、ウッドストック、どれもロックファンの憧れの地だ。

映画『ローレルキャニオン〜夢のウエストコーストロック〜』を観て

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そんなわけで『ローレルキャニオン〜夢のウエストコーストロック』を観てきました。まぁ結論から言うと最高の一言です。当時の住民はローレルキャニオンのことを〝オズ〟と呼んでいたらしい。『オズの魔法使い』のオズだ。つまり魔法の国。さらに「精霊が住んでいた」やら「時空にヒビが入り宇宙の真理がこぼれだしていた」という表現(こんな言い回しだったっけ?)もあった。とにかく夢の土地だったよう。スナフキンが無数にいたムーミン谷みたいなもの。

ローレルキャニオンを舞台にしたもう一つの映画『エコーインザキャニオン』は僕の近所では来週公開なので、この興奮を維持したままそっちも観に行くつもりです。

『ローレルキャニオン〜夢のウエストコーストロック』は2020年にアメリカで放送された2話構成のTVドキュメンタリー作品らしくて、それを一つにまとめて映画化、って感じなのかな?多分。

では少し内容と感想を!ネタバレ含みます!

構成

ヘンリー・ディルツが撮った当時の写真とヘンリー・ディルツによる回想を軸に、ローレルキャニオンにまつわるミュージシャン達のインタビュー音声を交えてローレルキャニオンの物語が時系列順に明かされていく。

写真家であるヘンリー・ディルツは元々はモダンフォークカルテットのメンバー。フォークボーカルグループであるモダンフォークカルテットは60年代前半からニューヨークのグリニッジビレッジを中心に活動していたが60年代半ばにLAへと拠点を移すと共にフォークロック化。ヘンリー・ディルツは写真に興味を持ち、ローレルキャニオンで暮らしていたロックミュージシャンの写真を多く撮った。

このヘンリーディルツの視点から物語は語られていく。モダンフォークカルテットにはタートルズでベースを弾きアニマルズをプロデュースしたチップ・ダグラスがいて、タートルズもアニマルズもローレルキャニオンに住んでいた。とにかくここら辺はみんな繋がっている。

映画の冒頭はタートルズ〝Happy Together〟で始まった。大好きな曲なので初っ端からもう大興奮。

ちなみにエンディングはByrdsの〝Turn,Turn,Turn〟。オープニングとエンディングだけでも死ねる。

Byrds,Buffalo Springfield,Love,Doors

64年にビートルズアメリカに侵攻してきたことで、それまでフォーク界隈で活動していたLAのミュージシャン達はエレキギターを手にし、こぞってバンドを結成した。彼らが拠点にしていたのはサンセット大通りにあるナイトクラブウイスキー・ア・ゴーゴー〉で、そこからバーズが〝ミスタータンブリンマン〟で最初に世に出ることとなった。

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バーズと同じく同時期にローレルキャニオンに移り住みウイスキー・ア・ゴーゴーを拠点としていたのがBuffalo SpringfieldやLoveやDoorsである。最初期のLAロック、ローレルキャニオンの物語の第1章。

バッファローのカナダ勢とアメリカ勢の出会いの話など有名な逸話が語られていく中、興味深かったのはLoveとドアーズにまつわる話

LoveとDoors

Loveはブライアン・マクリーンがByrdsのローディだったこともあり最初はByrds風のフォークロックをやっていた。するとバーズから(マッギンだったかクロスビーだったか)「真似事をしててもダメだ、自分達の音を見つけないと」と言われ、Loveは独自の音楽を模索し見事エレクトラレコードと契約を果たす。エレクトラはフォークレーベルの名門として知られており、Loveがエレクトラと契約を結んだ初めてのロックバンドとなった。そんなこともあってエレクトラはLoveに大きな期待を持って売り出し、66年のデビューシングル〝My Little Red Book〟がヒット、すぐに注目のバンドとなった。

しかしLoveは待遇に不満を感じており、別のレーベルへの移籍を考えていた。エレクトラが可愛い一人息子のLoveを手放すはずがなく、そこでLoveはDoorsを生贄にすることでレーベルを出て行く算段を立てる。

Doorsはジム・モリソンのカリスマ性によってデビュー前からクラブでは熱狂的な人気を誇っていた。にもかかわらずレコード契約が結べず、という状況だったよう。そんなドアーズをLoveはエレクトラレコードに推薦したわけだ。結果的にエレクトラはLoveに注いでいた広告費や宣伝費を全てDoorsに注ぎ込むこととなり、Doorsは大成功を収めた。一方Loveはレーベルを出て行くことは叶わず、ただただ以前より不遇になっただけ。Loveの甘い算段は大失敗に終わった。

Loveの2nd『ダ・カーポ』、3rd『Forever Changes』があんなに素晴らしいにもかかわらず今ひとつ売れなかったのにはこんな物語があったんだな。面白い。

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Doorsは夜のLAロック

僕はドアーズをLAロックに括り辛いとずっと思っていた。太陽や海やカントリーなウエストコーストなイメージがどうしてもドアーズから感じられないからだ。しかし「ドアーズは夜のLAを体現していた」という映画内での言葉で非常に腑に落ちた。他のウエストコースト勢とは明らかに違う雰囲気を醸し出していたドアーズは唯一夜のLAを表現していたんだな。その独自のサウンドはLAから全米、世界へと広がり、最初期のLAロック勢で1番成功することになる。

狭い世界の住人

こうしたローレルキャニオンと〈ウイスキーアゴーゴー〉のバンドは65,66年までは魔法の国の中だけで完結している〝狭い世界の住人〟だったという。より広い世界、社会へと目を向けるようになったキッカケはBuffalo Springfieldの〝For What It's Worth(66年12月リリース)〟の元ネタとなった66年11月に起こったサンセットストリップでの暴動だった。

サンセット大通りのサンセットストリップという区域には〈ウイスキーアゴーゴー〉を筆頭に多くのナイトクラブがあり、LAの若者達の溜まり場であった。大人達はこれをよく思わず、夜10時以降の外出禁止処置を取る。それに対して若者達はクラブの一つ〈パンドラボックス〉の付近で1000人規模のデモを行い警官隊と衝突。結果として〈パンドラボックス〉は閉鎖へと追い込まれた。この暴動を見ていたスティーヴン・スティルスが書いたのが〝For What It's Worth〟であるが、ここからローレルキャニオンの住人達は社会へと目を向けるようになる。世間でもベトナム戦争反対運動が高まり、67年の夏にはサンフランシスコで「サマー・オブ・ラヴ」が起こりヒッピーが産声をあげ、世界初のロックフェスティバル、モントレーポップフェスティバルが開催された。「音楽が世界を変える」という意識がローレルキャニオンの住人達の中にも芽生え始めたのだ。

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ママス&パパス

LAロックシーンとローレルキャニオンにおいて忘れてはいけないのがママス&パパス。〝夢のカリフォルニア〟というLAフォークロックを代表する曲を歌い、ジョン・フィリップスはモントレーポップフェスティバルの主催者となり〝花のサンフランシスコ〟を作り上げた。

映画で印象的だったのは“ママキャス”ことキャス・エリオット。ローレルキャニオンの住人達を結びつけ、化学反応を生み出したのはママキャスの功績が大きいみたい。その体どおりの大きな愛でミュージシャンを包み、世話を焼き、結びつけた。クラプトンが単身ローレルキャニオンを訪れた際もママキャスが間に入って住人達と打ち解けさせたと。偉大なりママキャス。スーパーグループCS&Nの誕生にもママキャスが関わっているし。

ジョニ・ミッチェルの入植とビートロックからの卒業

67年末にデヴィッドクロスビーがバーズから脱退。68年頭にはバッファロースプリングフィールドが解散。そしてカナダからアメリ東海岸へ出てきて歌っていたジョニミッチェルがデヴィッドクロスビーに連れられローレルキャニオンに移り住んだ。ジョニのマネージャーを務めることとなったエリオットロバーツとデヴィッドゲフィンもローレルキャニオンへ。ここからローレルキャニオンの魔法が本領発揮する。

クロスビー、スティルス&ナッシュ(&ヤング)

ウイスキーアゴーゴーには地元LAのバンドだけではなくキンクスザ・フーといったイギリスのバンドも出演していた。68年2月にホリーズがライブを行った際、終演後グラハムナッシュはローレルキャニオンに招かれ住人達と交流を深めた(ママキャスの家で)。同年夏、ホリーズでの居場所を失っていたナッシュが再びローレルキャニオンを訪れる。この時にジョニミッチェルの家でクロスビー、スティルス、ナッシュがハーモニーを響かせ、グループ結成を思い立つ。

このスーパーグループ結成秘話は有名だが、実際誰の家だったかとかそこに他に誰がいたか、とか当事者の証言がとにかく一致しない話でもある。何にせよ3人の他にママキャス、ジョニミッチェル、あとジョンセバスチャンが関わっている話が多い。

CS&Nの話で面白かったのは1stアルバムのジャケットの話。3人とヘンリーディルツは車で色んな場所を回りながら写真を撮影していた。結果1番気に入ったのが1stのジャケになった空き民家の前での写真だが、並び順がナッシュ、スティルス、クロスビーとグループ名と逆になってしまった。

写真を反転させてみたが、そうするとスティルスのギターがレフティになってしまう。撮り直すしかない。そこで数日後再び撮影のために向かったらその民家は取り壊されていたらしい。で、結局逆順のままのジャケットが使われることになったと。

映画ではニールヤングにそこまで焦点が当てられてなくて、バッファローにしてもCS&Nにしてもスティルスの天才ぶりが多く語られていた。

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ジョニ・ミッチェル

ジョニミッチェルがフロリダ州マイアミのクラブで歌っている時にデヴィッドクロスビーが訪れ、衝撃を受けたクロスビーはジョニミッチェルをLAに連れ帰る。クロスビーはジョニの1stアルバムのプロデュースを買って出たがジョニ曰く「何かしてるふりだけしてデヴィッドは何も手を加えなかった」。ジョニの素材そのままの方がいいと感じたからだ。「してるふり」というのはレーベル側に見せた姿勢なのだろう。当時素材のままレコードを出すなんてことは普通じゃなかったから。クロスビーはジョニの持つ素材のままの魅力を守りきったわけだ。

Song To A Seagull

Song To A Seagull

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ジョニがローレルキャニオンに移住したことがLAの音楽シーンを変化させた、ということが映画では強調されていた。ロックグループ出身のメンバーがCS&Nというアコースティックハーモニーグループを結成。クロスビーが抜けたバーズはグラムパーソンズを迎え入れカントリーロックの扉を開き、その後パーソンズとクリスヒルマンはフライングブリトーブラザーズを結成。

ビートルズらブリティッシュビートの影響を受けて始まったアメリカンロックだったが、68年ごろにビートロックを卒業し、よりシンプルでアメリカンルーツに根付いた音楽性へと変化していった。僕はアメリカ全土で起きたこの変化の発端はザ・バンドの出現にあると考えていたが、ジョニミッチェルのローレルキャニオン入植がターニングポイントである、ということがこの映画では強調されていた。同時期にLAにはデラニー&ボニーも出現していて、クラプトンはザ・バンド、ジョニ、デラニー&ボニーの衝撃を一気に受けてルーツミュージックに傾倒していったのだろう。この映画の予告編でも切り抜かれていたジョニが弾き語るのを体育座りでクラプトンが見つめるシーンは印象的だった。

ジョニとナッシュの恋についての話もしっかりあり、恋多き女として知られるジョニだがナッシュと付き合っている間は他の男に見向きもしなかったと。2人の写真はどれも仲睦まじく美しいものばかりだった。別れの際にジョニが残した「砂は握りしめすぎるとこぼれてしまう」という言葉は実に詩的で、どこかローレルキャニオンそのものを表しているかのようでもあった。

夢の終わり

69年8月8日シャロンテート殺人事件、翌週にヒッピームーヴメントの集大成ウッドストックフェスティバル〉、年末には「オルタモントの悲劇」。フラワームーヴメントの終焉についても時間をかけて語られていた。

チャールズ・マンソン

オハイオ州に生まれ若くして数度刑務所に入った後、チャールズマンソンはヒッピーの聖地サンフランシスコのヘイトアシュベリーへと流れ着いた。犯罪を繰り返しつつカルトヒッピーコミューンを築いていたマンソンがLAに移動したのはビーチボーイズデニスウィルソンと知り合ってからだった。カルトコミューン「ファミリー」と共にデニスの豪邸に住みつくこととなる。マンソンはビートルズ好きのミュージシャンで、ビッグになることを夢見ていた。そんなマンソンにデニスはバーズのプロデューサーとしてしられるテリー・メルチャーを紹介。

マンソンはデビューの約束をこじつけたが結局色々と拗れて破綻。そのことに腹を立ててファミリーはテリー・メルチャー宅を襲撃。しかしテリーメルチャーはすでに引っ越しており、その家には当時映画監督のロマン・ポランスキーと妻の女優シャロン・テートが住んでいた。ロマンポランスキーは留守だったがシャロンテートと友人3名が殺害される事件となった(このデニスの豪邸やテリーメルチャー宅がローレルキャニオンに含まれるのかどうか詳しくはわからないが、同じウエストハリウッド市内であることは間違いない)。

チャールズマンソンについては映画や書籍など様々なもので語られているし、事件の真相は色々と複雑そうだが、簡単に言ってしまえば「売れないヒッピーミュージシャンの逆恨み」である。単にそれだけの悲劇であるが、この事件がヒッピー文化全体に影を落とすこととなった。

ウッドストックフェスティバル

シャロンテート事件の1週間後にニューヨークで開かれたヒッピーの祭典。ただこの時点ではマンソンファミリーは逮捕されてないのね。だからフラワームーヴメントの魔法はまだ生きていて、結果的にヒッピーの集大成、最後の大花火、「愛と平和の祭典」として成り立ったわけだ。

オルタモントの悲劇

69年末に開かれたローリングストーンズ主催の〈オルタモントフリーコンサート〉もやはり夢の終わりの象徴として映画で語られていた。会場の異様な空気を多くのミュージシャンが振り返っていた。警備隊として雇われたラリったヘルズエンジェルスに観客が殺され「ロックンロールにとって最悪の日」となった。

第2章、70年代のローレルキャニオン

そうして60年代が終わり70年代に突入。ローレルキャニオンも新たなフェーズへと突入しようとしていた。

ジョニミッチェルとCSN&Nのマネージメントをしていたエリオットロバーツとデヴィッドゲフィンの元にはジャクソンブラウンという若きミュージシャンがいた。ジャクソンブラウンは67年のニコの1stで楽曲が使われるなど、ソングライターとして若くから活躍していたが自身のデビューには苦労していた。ロバーツとゲフィンは方々にアピールしたが中々契約を取れず、最終的にはアトランティックレコードの出資を得て自らアサイラムレコード〉を設立した。

ジャクソンブラウンとグレンフライJ.Dサウザーは当時同じアパートに住んでおり、グレンフライとJ.DサウザーはLongbranch Pennywhistleというデュオを組んでアルバムを一枚残している。

 

 

グレンフライはリンダロンシュタットのバックバンドとして出会ったドン・ヘンリーらとイーグルスを結成しデビュー。J.Dサウザーは共同作曲者としてイーグルスに貢献した。ジャクソンブラウンとグレンフライは〝Take It Easy〟を共作しそれがイーグルスのデビュー曲となった。 J.Dサウザーはリンダロンシュタットの73年4thアルバムでコラボレイトした後、クリスヒルマン(元バーズ、フライングブリートーブラザーズ)とリッチーフューレイ(元バッファロースプリングフィールド、ポコ)とスーパーグループ、サウザーヒルマン・フューレイ・バンドを結成した。

ジャクソンブラウン、リンダロンシュタット、イーグルスサウザーヒルマン・フューレイ・バンド、ローレルキャニオンの第2章は70年代のウエストコースト/カントリーロックを誕生させた。

ジュディ・シルについては語られず!

そんな感じで後半はリンダロンシュタットやイーグルスを中心とした70年代ウエストコーストな話になっていったが、我が愛するジュディシルについては語られることはなかった。彼女もちゃんとローレルキャニオンの一員で、ジャクソンブラウンをデビューさせるために設立されたアサイラムレコードの第一弾アーティストでもある。J.Dサウザーとリンダが一時期恋人関係であったことには触れられていたが、その前にはジュディシルと付き合っていたのに!映画の存在を知った時からジュディの花を期待していた分そこだけが残念でござんした…

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ロックカルチャーと暗部

去年(一昨年?)のザ・バンドのドキュメンタリーでもそうだが、ドラッグがロックカルチャーの暗部として強調されすぎているのが印象的だった。いや、そりゃドラッグがダメなのは当たり前なんだけどヒッピーカルチャーそのものやローレルキャニオンという夢の国がその言葉通り夢で幻で失敗だったように描かれてるのには少し疑問を感じる。いやそう描いてはないんだけどドラッグダメを強調しすぎてそのカルチャー全てがダメみたいな印象操作になってるような。今映画を作るとなるとドラッグダメ絶対!を強調しなきゃいけないルールみたいなのがあるのだろうか。チャールズマンソンとオルタモントのパートの話ね。

少なからず僕はローレルキャニオンの暮らしに猛烈に憧れるし、死ぬほど羨ましすぎて映画館を出て見えた大阪の街に死ぬほどガッカリした。

 

とにかく素晴らしき夢の物語でした!来週はもう一つのローレルキャニオンドキュメンタリー『エコーインザキャニオン』を観に行く!こっちはディランの息子のジェイコブ・ディランがナビゲーターのようで、リンゴスターやブライアンウィルソン、さらにBeckやノラジョーンズといった次世代のミュージシャンも出演してるらしい。楽しみ!

 

ローレルキャニオン作品2作、多分上映期間は短いので、まだ観てないロックファンの方は是非!!

では!

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