ケンジロニウスの再生

ロック史を追いながら関連図を作成(関連図挫折中)

映画『ザ・ビートルズ:Get Back』を観て(Part 2 ③)

『Get Back』パート2、続きです!

前回↓

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20日にアップルスタジオに移動しセッションを再スタートさせたビートルズ。21日はジョンのドラッグハイが上手く噛み合い割とスムーズにリハーサルが進んだ。そんなスタジオ移動による心機一転、良き気配が見えた22日から!

1969/1/22

メリー・ホプキン

22日はポールがメリー・ホプキンのレコードについて話すシーンから。米盤のジャケットがどうだとかの話だったかな?ポールとジョージが笑いながら話してるとても安心をくれるシーン。メリー・ホプキンはポールがプロデュースし68年にアップルレコード第1号アーティストとしてデビューした女性シンガー。メリーホプキンはこの後69年にポールプロデュースで1stアルバム『ポスト・カード』をリリース。これももちろんいいけど、71年の2nd『大地の歌』がフォーキーでいいのよね。メリー・ホプキン〈アップルの歌姫〉としてポール監修の元アイドル的に売り出されたが、アーティスト志向のホプキンはそのことに不満を感じ1stアルバムの後ポールの手を離れる。ホプキンは69年夏頃トニー・ヴィスコンティと共にデヴィッド・ボウイの《ベックナム・アーツラボ》に参加していたという話もあり、かなりアーティスティックな思想の持ち主であったようだから仕方ない。71年2nd『大地の歌』はトニー・ヴィスコンティによるプロデュースでアップルレコードからリリースされ、同時にヴィスコンティとホプキンは結婚。なわけで個人的にはメリー・ホプキンビートルズ関連というより、ボウイ関連、ヴィスコンティ関連のイメージ。

大地の歌

大地の歌

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プリムローズ・ヒル

セッションはなんとか進みそうな気配が見え始めたが、ライブ案に関してはまだ相変わらず議論状態。「野外ライブ」という方向性は決まっているがあどこでやるかが決まらない、そこで出た案が〈プリムローズ・ヒル。ロンドン市街を一望できる丘でありポールが書いた〝フール・オン・ザ・ヒルの「ヒル」でもある。同じロンドン市内で近いし、見晴らしもいいし、ついにライブ場所が決定しそうな予感…だがご存じの通りこれは実現しなかった。

フリートウッド・マックとキャンド・ヒート

1月6日の「The Move観た発言」に続いてジョンはこの22日にフリートウッド・マックのライブを(TVで?)観たことをメンバーに伝える。ジョンはとにかくライブが最高でギターはもちろんだけど特に歌がよかったと絶賛した。ジョージはメンバーが4人だったかどうかを確認、ダニー・カーワンが加入してトリプルギターになった後のライブか否か、ということだろうか。ポールは「キャンド・ヒート?(同時期の米ブルースロックバンド)」と問うがジョンは「彼らより良い」と回答。ポールは「キャンドヒートかと思った」とキャンドヒートの曲を歌い出す…………いや…だからキャンドヒートちゃうってゆーてるやん…そーゆーとこやぞポール。笑

さて、ジョンとフリートウッドマックと言えば〝Sun King〟〝アルバトロス〟からの影響であることが有名な話(まじまんま)。

さらに『アビーロード』でジョンが〝Come Together〟に〝I Want You〟とブルースロック曲を多く作ってることもフリートウッドマックからの影響といえなくもない。〝I Want You〟は〝Black Magic Woman〟だという説もあったり。 まぁ〝Sun King〟にしても〝I Want You〟にしても多重コーラスパートや暗黒三拍子パートを組み込んでるところがビートルズの凄さで面白さなんだけど。とにかくジョンがフリートウッドマックを好んでいた、という話の証拠がはっきりと残されているシーンでした。

グリン・ジョンズ

グリン・ジョンズの必死の奮闘によりアップルスタジオはようやく録音できる環境になった。グリン・ジョンズはゲットバックセッション及びルーフトップコンサートにおいてかなりの功労者だと思うんだけど、とにかくメンバーとくにジョンからの扱いが悪い。レコーディング・エンジニアとしてベースの音やドラムのミュートについてミキサー室から指示を出したりするわけだが「お前がミュートしてろ(黙ってろ)」とかジョンに言われる始末。ジョンはグリンのことを何度も「グリニス」と呼んでいて、あだ名みたいなもんかと思いつつ調べてみたらイギリスの有名な女優に〝グリニス・ジョンズ〟って人がいるのね。

そんな少し可哀想なグリン・ジョンズについて少し。グリン・ジョンズは60年頭から半ばまで歌手として活動してて、ビートルズの〝I'll Follow The Sun〟やストーンズの〝Lady Jane〟のカバーなんかをシングルリリースしていた経歴がある(Lady Janeはスペインで一位とったらしい)。

ストーンズのイアン・スチュアートとは無二の親友で、そんなこんなでストーンズ周りでエンジニアの仕事を始める。68年にTrafficの2nd、スモールフェイセスの『Ogdens' Nut Gone Flake』、ストーンズの『ベガーズ・バンケット』、プロコルハルム2nd『月の光』、レッド・ツェッペリンの1stなどの名盤にエンジニア/ミキサーとして関わり、スティーブ・ミラー・バンドの1stではプロデューサーも兼ねている。

こうやってみるとめちゃくちゃ売れっ子エンジニアに思えるが、エンジニアというのは当時レコードにクレジットされないことも多く、クレジットがなければ名が売れず、といった状態だったようで。ツェッペリンの1stなんかはジミー・ペイジに「プロデューサーとしてもクレジットしてくれ」と直談判したが断られたという。スティーブ・ミラー・バンドではその直談判が成功した、といったところだろうか。ってかシスコサイケの一員であるスティーブミラーバンド、ロンドンでレコーディングしてたのね。

未来の子供達(紙ジャケット仕様)

なんにせよ68年末にポールから直接電話を受け、ゲットバックセッションのエンジニアに任命されたのはグリンにとって大チャンスの到来だったよう。しかしセッションは不穏な空気で始まり、メンバーの脱退騒動まであり、移動したスタジオの機材はめちゃくちゃで、メンバーからは冷たい言葉を浴びせられて…でもチャンスなので頑張るグリン・ジョンズ。最終的にはアルバム『Get Back』のミックスまで任せられるという大大大チャンスが訪れたがお蔵入りに…結局フィル・スペクターがミックスしたものが『Let It Be』になったわけだ。グリンがスペクターの『Let It Be』にめちゃくちゃ苦言を呈しているのは有名な話。

そんなわけでゲットバックセッションはグリンにとって苦い経験となったが、その後はザ・フーの71年『フーズネクスト』をプロデュースし、アサイラムレコードを設立したデヴィッドゲフィンから声がかかりイーグルスのプロデューサーとして成功を収める。映画『Let It Be』と今回の『Get Back』の1番の違いは裏方勢の出演割合で、マイケルリンゼイホッグやグリンジョンズの働きというのは一つの見どころだ。

ビリープレストン襲来

そしてこの22日についにゲットバックセッションの最重要人物ビリー・プレストンが襲来する。

トゥイッケナムスタジオにエレピが到着した時のメンバーの会話、アップルスタジオにエレピが到着した時の会話、ほんとに物語が決まっていたかのようにビリーが参加するフラグのようなものが立ちまくっていたゲットバックセッション。「ジョージがレイチャールズのバックで弾くビリープレストンに感銘を受けて声をかけた」というのがこれまでの定説であったが、実際にはTV出演のために〝たまたま〟ロンドンに来てたので挨拶がてらアップルスタジオに寄った、ということらしい。なんと運命的な。レイチャールズ〜の件はトゥイッケナムスタジオでのセッション時にジョージが発言しているが、あくまで賞賛であり推薦というわけではなかったのだ。

ビリープレストンとビートルズの出会いは62年。ビリーがリトルリチャードのバックバンドの一員としてイギリス、ドイツをツアーで回った際である。その時リヴァプールハンブルクビートルズと共演し親交を深めた(ビートルズの下積み時代、ハンブルク巡業時代と間違えてる記事を多く見かけたが、この出会いは62年のビートルズデビュー直後の頃の話)。「原点に帰る」ことを目的としたゲットバックセッションに旧知の仲であるビリープレストンが参加したのは感慨深いものがある。〝たまたま〟エレピを用意していて、その役を求めていたビートルズはビリーにセッションへの参加を打診し、ビリーは二つ返事で承諾。

不穏な空気に満ちていたゲットバックセッションが好転したのはビリーのおかげだ、というのは昔から知られていたこと。旧友参加の懐かしさや、ビリーの愛嬌や、ビートルズの外面の良さが作用してスタジオの雰囲気が一気に明るくなった、そう語られてきた。だが、もちろんそれもあるが、何よりセッションを加速させビートルズを前向きな気持ちにさせたのはビリーのエレピプレイそのものであることがこの『Get Back』で明らかにされている。

バラバラでギスギスしたビートルズの緩衝材としての役目をビリーが果たした、もちろんそれもある。しかしそれ以上にビリーが与えたのは〝音楽的充実〟だ。ポールがジョージのギターパートをどうとか、ジョンの曲をポールが触りすぎるとか、ジョージの曲をジョンが嘲笑するとか、人間関係のいざこざ、方向性の不一致、そんなことは些細なことで、セッションが、曲制作が、ライブのリハが行き詰まっていた理由は厳密には〝音楽的問題〟に他ならない。メンバー全員が音楽的充実を得られていれば自ずと曲はできていくし、セッションは進む。

ビリーのピアノプレイは一瞬でメンバーに音楽的充実を与えた。1月2日にセッションが開始してからここまで、何かしっくりこなかった曲に対して寸分の狂いもなくピッタリのピースをはめ込んだ。特に〝Don't Let Me Down〟のエレピは神がかっている。 これを初見で弾いたってんだから信じられない。誰かスタッフが事前に裏で音源をビリーに渡してて、じっくりとアレンジを練ってから、この22日に偶然を装ってスタジオに現れた、そうでもないと信じられないプレイだ。

ジョンもポールも感動し、様々な問題が全て吹き飛びセッションが加速していく。ジョンは完全にやる気を取り戻し、最高のアルバムができる、とまで発言。さらにセッション映像は映画にしろと、ここで映画の話が初めて浮上した。

いやー結局バンドを救うのは音楽だ、ってことを思い知らされましたね。

続く!

まだまだ続きそうです!

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