ニルソンを4回にも渡って書くつもりはなかったのですが、要約する能力が足りず気付けば。元々は《グレート・アメリカン・ソングブック》とソフトロックの関係に迫ろう、という導入だったはず。
《グレート・アメリカン・ソングブック》に特に接近した《バーバンク・サウンド》と呼ばれるソフトロック作品を生み出したヴァン・ダイク・パークスとランディ・ニューマン、そしてその2人と関わりもあり同志向の音楽性を持っていたハリー・ニルソン、の3人について書こうとしたのだったかしら。なので今回でニルソンはラストにして、せっせとヴァン・ダイク・パークスとランディ・ニューマンへと移っていこうかと。
前回はニルソン71年〜73年の絶頂期、〝Without You〟の世界的ヒットおよび《シュミルソン3部作》の成功について書きました。今回はトップミュージシャンの仲間入りを果たしたその後、様々な有名ミュージシャン達と交流を持ちながら失速していく70年代半ば以降について。
6-14 うわさの男、ハリー・ニルソン④(第99話)
〝Without You〟と《シュミルソン3部作》の成功によりトップアーティストの仲間入りを果たしたニルソンは、74年に映画『Son Of Dracula(ドラキュラ2世)』にリンゴ・スターとのW主演で出演し、サウンドトラックを手がける。
74年映画『Son Of Dracula(ドラキュラ2世)』
この映画は〈アップル・フィルムズ〉製作のドラキュラをモチーフにしたホラー映画であるようだが、日本版は公開されてないようなので観たことはない(もしされてても観ないか…)。リンゴはビートルズ時代から役者としての才能を認められ『Let It Be』以外のビートルズ映画でジョン、ポールを差し置いて主演を務めている。ビートルズ解散以降もソロ活動と並行していくつかの映画に出演し、72年のT.Rexのドキュメンタリー映画『Born to Boogie』では監督デビューを飾るなど、俳優兼映画監督としての道を歩み始めていた70年代。そんなタイミングでのニルソンとの『Son Of Dracula』であった。ニルソンがドラキュラの息子役、リンゴがドラキュラ一族のファミリー・アドバイザー(家族顧問?)役、他にもキース・ムーンやジョン・ボーナム、ピーター・フランプトン、クラウス・フォアマン、レオン・ラッセルらがバンド演奏シーンで登場するとか。
リンゴがニルソン72年8th「Son of Schmilsson(シュミルソン2世)」にドラムで参加したことをキッカケに2人の友人関係は始まり、ここから互いの作品で2人は多く共演していくことになる。
「シュミルソン2世」はジョージ・ハリソンのフライアー・パーク邸で撮られたドラキュラ風のニルソンがジャケットとなっているが、アルバムコンセプトにもドラキュラは関係しているようで、このアルバムにリンゴが参加したことが映画『Son of Dracula』に繋がっていくことになる。『Son of Dracula』は74年公開であるが撮影は72年に行われていて、「シュミルソン2世」から流れるように製作された様子。だが、リンゴ自体は「シュミルソン2世」のコンセプトがドラキュラだってことは知らなかったとかなんとか。
サウンドトラックはニルソン楽曲とポール・バックマスターによるインストゥルメンタル曲で構成されている。ポール・バックマスターはデヴィッド・ボウイ〝Space Oddity〟やエルトン・ジョン作品で知られるチェリスト/ストリングスアレンジャーであるが、ニルソンとは〝Without You〟や〝Spaceman〟で共演した仲。ニルソン楽曲は新曲は一曲のみで、他は〝Without You〟や〝Remember (Christmas)〟、〝Jump Into the Fire〟など「ニルソン・シュミルソン」と「シュミルソン2世」に収録されたものが使われた。
唯一の新曲〝Daybreak〟のレコーディングにはニルソン、リンゴに加えてピーター・フランプトン、クラウス・フォアマン、ジム・プライス、ボビー・キーズ、ジョージ・ハリソン(カウベル)といった「シュミルソン2世」参加の豪華メンバーが再び集結。この曲はシングルとしてもリリースされたが、米21を獲ったもののイギリスではチャートインせず。
そもそも映画自体がイマイチだったようで、アルバムも米106位にとどまった。
〝Without You〟のヒットにより《七色の声を持ち3オクターヴ半の声域があるシンガー》として認知されていたニルソンは「シュミルソン2世」とこの『ドラキュラ2世』で謎のドラキュライメージを打ち出したわけだが、ドラキュラにまつわるものはもう一つある。
それは〈Hollywood Vampires〉と名付けられたグループ、というか飲みサークルである。
Hollywood Vampires
2015年にアリス・クーパーがジョニー・デップ、ジョー・ペリー(エアロスミス)とHollywood Vampiresというスーパーグループを結成した。このバンドに関してはほとんど聴いてなくて「ジョニー・デップ、ギター弾けるんかい!」という衝撃以外は印象にないが、このHollywood Vampiresというバンド名には元ネタが存在する。
70年代前半、ロサンゼルス、サンセットストリップにあったRainbow Bar & Grillというバーの2階で夜な夜な集まって酒を飲んでるミュージシャン集団がいたそうな。それはアリス・クーパー、ジョン・レノン、リンゴ・スター、キース・ムーン(ザ・フー)、ミッキー・ドレンツ(モンキーズ)、そしてニルソンといった飲んだくれ達であり、アリス・クーパーはその集団にHollywood Vampiresという名を付けたそうな。ジョンがLAに居たってことは、いわゆるヨーコと一時的に別居した《失われた週末》、73年〜75年のころの話だろうか。
【ヴァンパイア】というネーミングに、リンゴ&ニルソンの『ドラキュラ2世』が関わっているのか、それとも酒飲みを吸血鬼に喩えたのかは不明だが、何にせよニルソンはこの時期にここでも吸血鬼を名乗っていたのである。ちなみに【Vampire】は【吸血鬼】を意味するけど、【Dracula】は1897年の小説『吸血鬼ドラキュラ』に登場する吸血鬼の名前で、つまり固有名詞なのね。ドラキュラという名のヴァンパイア、ってことか。
ジョニー・デップらとのバンドのHollywood Vampiresは、この70年代の飲み仲間のスピリットを蘇らせようというコンセプトの元、アリス・クーパーによって結成され、2015年の1stアルバムではジョンやニルソンやザ・フーなどの楽曲をポール・マッカートニーやブライアン・ウィルソン、デイヴ・グロールにスラッシュなどの豪華ゲストを迎えてレコーディングしたとな。
(ニルソンの〝One〟と〝Jump Into The Fire〟のカバー)
何にせよニルソンは73年ごろにスーパースター達と共に浮かれてHollywood Vampiresなどと名乗り飲んだくれた結果、世間的には1番の武器であった3オクターヴ半の声域と7色の声を失ってしまい、この後人気は失速することになる。
74年10th「Pussy Cats」
ジョン・レノンをプロデューサーに迎えた74年10th「Pussy Cats」。リンゴとキース・ムーンも参加しており、Hollywood Vampiresのどんちゃん騒ぎの延長のようなアルバムである。
ジョン・レノンはいわゆる《失われた週末》真っ只中であり、この直後に「心の壁、愛の橋」をリリースする、といった時期である。そのことから、クラウス・フォアマン、ジェシ・エド・デイヴィス、ケン・アッシャー、ジム・ケルトナー、ボビー・キーズと参加メンバーがわりとかぶっており「心の壁、愛の橋」にはニルソンもゲスト参加しているので、この2枚は兄弟アルバムと捉えていいだろう。
飲んだくれた生活と、このアルバムでのジョンとのレコーディングでニルソンの《7色の声》は失われ、カスカスのしゃがれ声一色になってしまう。それが原因で人気は低迷していくわけだが、しゃがれ声になってもやっぱり歌は抜群にうまいし、これはこれで渋い素晴らしい声とも言える。
個人的に案外お気に入りのアルバムで、1曲目レゲエ界のレジェンド ジミー・クリフの〝Many Rivers to Cross〟のカバーや、6曲目ベン・E・キングの在籍で知られるR&B/ドゥーワップグループThe Driftersの〝Save the Last Dance for Me〟のカバーなんかは特に素晴らしい。ショートディレイをかけた声や、薄く包み込むストリングスはジョンらしさ全開のサウンドとアレンジ。2曲目のボブ・ディランの名曲〝Subterranean Homesick Blues〟の前衛パンク的カバーはいただけないけどね…
(マジでジョン)
オリジナルも〝Don't Forget Me〟や〝Old Forgotten Soldier〟など優れた曲があって、そこまで悪いアルバムではないと思うんだけど、確かに〈遊び心に溢れたアルバム〉と捉えるか〈酔っ払いの悪ふざけ〉と捉えるかは人によるかも。
2人の遊び心(or悪ふざけ)がジャケットにも残されている。
ニルソンとジョンが座る【テーブルの下】に【ラグ】と【DとSのブロック】が置かれているこのジャケット。ラグとDとSのブロックを合わせて左から読むと【drugs】になり、それがテーブルの下にあるので【drugs under the table】となる。【under the table】は【袖の下、裏金】的なスラングであるが【酔いつぶれる】という意のスラングでもあり、つまりは【ドラッグで酔いつぶれる】的なメッセージがこのジャケットには隠されているわけだ。ばかだねー。
コラボ効果もあってアメリカでは最高60位まで昇ったが、イギリスではチャートインしなかった。
ヴァン・ダイク・パークスとの75年以降
75年以降ニルソンはセルフプロデュースでアルバムを制作し、ヴァン・ダイク・パークスが鍵盤兼アレンジャーとして支えて行くことになる。《グレート・アメリカン・ソングブック》を愛していたこと、コンポーザーとしてソフトロック界隈に貢献したこと、ランディ・ニューマンと密接に関わっていたことなど共通点を持っていた2人が75年に邂逅。80年にニルソンが引退するまでパークスのサポートは続くことになる。
ヴァン・ダイク・パークスは72年2nd「Discover America」や75年3rd「Clang of the Yankee」で大々的にカリプソを取り上げており、その影響かニルソンもカリプソ風の曲を演り始める。ニルソンとパークスの古いアメリカ音楽及びカリブ海音楽へのアプローチは非常に興味深いが、やはりピークを過ぎてしまった感は否めない。
75年11th「Duit On Mon Dei」ではマーク・ボランの恋人として知られるグロリア・ジョーンズが、76年12th「Sandman(眠りの精)」(これはわりと好き)ではジョー・コッカーがゲストボーカルとして参加。
76年13th「...That's The Way It Is(ハリーの真相)」ではオリジナル曲は数曲のみでジョージ・ハリソン、ランディニューマンの曲やカリプソ音楽をカバー。
70年代半ばもコンスタントにアルバムをリリースし、相変わらず参加メンバーは豪華であり、内容も決して悪くはなかったが世間的にはさほど話題にならずセールスは落ち込んでしまった。
そんな状況を打破すべく、77年14th「Knnillssonn」をリリース。
「Knnillssonn」は67年から10年間契約したRCAからの最後のアルバムとなった。最後ということもありRCAはプロモーションに気合いを入れ、全曲オリジナルで出来もよくニルソンの起死回生のアルバムとなるはずだった。が、運悪くこの77年にエルヴィス・プレスリーが急死し、エルヴィスの遺作となった「Moody Blue」のプロモーションにRCAが全力を注ぐこととなり、「Knnillssonn」のプロモーションはおざなりに。結果米108位という残念な結末でRCA時代に幕を下ろした。
引退、死
80年に『ポパイ』の実写映画のサントラを手がけ、同年〈マーキュリー・レコード〉から15th「Flash Harry 」をリリース。このアルバムは日本やイギリスではリリースされたが、当初アメリカでリリースされず、プロモーションも行われずで全く売れなかった。
この「Flash Harry」を最後にニルソンはオリジナルアルバムの制作を辞め、80年代は映画音楽を作ってはいたものの事実上音楽業界から引退する。
90年代に入り、再びオリジナルアルバムを作る気が芽生えレコーディングを開始。93年に心臓発作を起こし、何とか生き延びてレコーディングを再開するが94年に心不全で死去。
死ぬ数時間前にボーカルトラックを録り終えたというこのカムバックアルバムは時を超えて2019年に「Losst and Founnd」としてリリースされた。
終わり!
75年以降は正直聴きこめてないので最後さらさらっとなってしまいましたが、ニルソン、以上です!
おすすめアルバムをおさらいしておくと、68年3rd「Aerial Ballet(空中バレー)」は文句なしの名盤。67年2nd「Pandemonium Shadow Show」と69年「Harry」も良作。70年「ランディ・ニューマンを歌う」はランディニューマンの1st,ヴァンダイクパークスの1stと合わせてどうぞ。《シュミルソン3部作》は71年「ニルソン・シュミルソン」よりも72年「シュミルソン2世」が素晴らしい。74年「Pussy Cats」はジョン・レノンとのタッグが趣き深い。75年以降のヴァンダイクパークスとの作品では76年「Sandman」かな。
長かった…終わり終わり!!ニルソンはとにかく大成功した71年の〝Without You〟と「ニルソン・シュミルソン」での姿は異色で、基本はアメリカ臭が非常に濃いミュージシャンです。歌にソングライティングにカバーアレンジ力、まぁ、天才です。
では!