バーバンクサウンドとは
ソフトロックとアメリカの伝統的なポピュラーミュージックとの関係性について。今回はそのテーマの要ともいえる《バーバンク・サウンド》を。そもそもバーバンクサウンドとは一体どんな音楽を指すのか、根本的なところから書き進めてみようと思う。
1958年、映画会社として有名なワーナーブラザーズエンターテイメントは時代の波に乗りレコード部門としてワーナーブラザーズレコードを設立。
1960年、30年代から活躍する大御所ポピュラー歌手であるフランク・シナトラがワーナーと共同出資で自身のレコード会社としてリプリーズ・レコード(Reprise)を設立。
1963年、レコード会社運営に飽きたシナトラはリプリーズレコードを手放しワーナーが買い取る。以降、レーベルこそ違えどワーナー/リプリーズはほぼ同一スタッフで運営されることとなる。
1966年、若手社員としてレニー・ワロンカーがワーナーに入社。このレニー・ワロンカーを中心としたチームがワーナー/リプリーズで66年から60年代末にかけて多くのソフトロック/サンシャインポップ作品を残す。これがいわゆる《バーバンクサウンド》だ。
ワーナーブラザーズの本社がカリフォルニア州バーバンクにあったことからそう呼ばれるわけだが、ワーナー/リプリーズの中でもレニー・ワロンカーのチームが関わってる音源が特別《バーバンクサウンド》と呼ばれている。60年代末のワーナー/リプリーズはグレイトフル・デッドやニール・ヤングやジョニ・ミッチェルなんかも世に送り出しているが、レニーワロンカーチームではないので彼らが《バーバンクサウンド》に含まれることは基本的にはないわけだ。
レニー・ワロンカーは70年代もプロデューサーとして活躍し、ドゥービーブラザーズやリトル・フィートといったルーツ/サザンロック系のバンドを世に送り出すが、特に《バーバンク・サウンド》として語られるのは60年代末の作品群である。70年代プロデュース作品は割とバンド主体であるものが多いが、60年代末はレニー・ワロンカーの元に集まった裏方の人間が暗躍し古いアメリカポピュラー音楽を踏襲したアレンジを施し、バーバンクならではのソフトロックを作り上げている。
その60年代末の《バーバンクサウンド》の作品群、そしてそれに関わった裏方ミュージシャン達を紹介していこうと思うが、まずはその首領であるレニー・ワロンカーという人物から。
レニー・ワロンカー
レニー・ワロンカー、1941年ロサンゼルス生まれ。父サイモン・.ワロンカーは元20th Century Foxオーケストラのヴァイオリニストであり、50年代にはリバティ・レコードを創立した。リバティ・レコードはエディ・コクランなどが在籍しており、戦後最も成功したインディレーベルの一つだと言われているそうな。
レニー・ワロンカーは学生時代からリバティ・レコードで父親の仕事を手伝い、大学では経営学を学び、61年に大学を卒業するとリバティレコードで働き、将来的にリバティレコードを継ぐ準備はできていた。しかし66年にワーナー/リプリーズにA&Rとして入社することとなる。
60年代末に優秀なスタッフを従えて《バーバンクサウンド》を残し、70年代にはA&Rの責任者となりドゥービーやヴァンヘイレンなど多くのバンドを輩出、80年代にはワーナーブラザーズのトップに昇り詰め、2004年まで社長を務めた。
まぁレニー・ワロンカーはワーナーにおいて非常に重要なプロデューサーであり、経営者である。
そんなレニー・ワロンカーが60年代末、ランディ・ニューマンやヴァン・ダイク・パークスらと共に作り上げた古き良きアメリカらしさに迫る音楽《バーバンクサウンド》について!
6-16 バーバンク・サウンド①〜オータム・レコード所属バンドの再プロデュース〜(第101話)
オータム・レコードの買収
66年、レニー・ワロンカーがワーナーに入社して最初にした仕事はワーナーが買収したばかりのオータム・レコード所属アーティストのプロデュースであった。
オータムレコード(Autumn Records)はサンフランシスコのレーベルであり、ボー・ブラメルズ(Beau Brummels)やモジョ・メン(The Mojo Men)などが在籍したレーベルだ。グレース・スリックがジェファーソン・エアプレインに加入する前に組んでいたグレート・ソサエティ(〝Somebody to Love〟のオリジナルはこのバンド)もオータムレコードに所属していた。ちなみにこれらの作品をプロデュースしたのが、後にスライ&ザ・ファミリーストーンでファンク・ロックを牽引していくこととなるスライ・ストーンだった。この辺はシスコサイケについて書いた際に少し触れたところ。
そのオータムレコードが65年に倒産し、ワーナーに吸収されることとなる。それに伴い自動的にワーナーに移籍となったオータムレコード所属アーティストをレニーワロンカーが引き受けたわけだ。
The Mojo Men
まず最初にプロデュースしたのが67年頭にリリースされたモジョ・メンのヒットシングル〝Sit Down, I Think I Love You〟。この曲はスティーブン・スティルスの楽曲であり、バッファロー・スプリング・フィールドの66年1stにも収録された楽曲。それを見事なソフトロックバージョンにアレンジしたのがヴァン・ダイク・パークスだった。パークスはレニー・ワロンカーの友人であり、この仕事を皮切りにレニーワロンカーの右腕としてバーバンクサウンドを支えていくことになる。このモジョメンの〝Sit Down, I Think I Love You〟はかのガレージコンピ『ナゲッツ』にも収録されており、ガレージロックが連なる中サジタリアスと共に異質なソフトロックを響かせている。
Beau Brummels
続いてプロデュースしたオータム勢がボーブラメルズ。ボーブラメルズはオータムレコードから64年に〝Laugh Laugh〟でデビューしており、Byrdsのデビューよりも早いことからアメリカ最初のフォークロックバンドだと言われることもあるバンドだ。そんなボーブラメルズはワーナー移籍後66年にカバーアルバムを一枚リリースし、翌67年にレニー・ワロンカーによるプロデュースで『Triangle』をリリース。
これが極上のソフトロック/ソフトサイケ。ヴァン・ダイク・パークスがハープシコードで参加し、ラスト曲はランディ・ニューマンによる楽曲が収録された。ランディ・ニューマンは映画音楽の作曲家として有名なニューマン一族の血筋を引き、伯父・叔父にアルフレッド・ニューマン、エミール・ニューマン、ライオネル・ニューマンという映画音楽の作曲家を持つ男である。レニーワロンカーの父のレーベルであるリバティ・レコードからリリースされた記念すべき1曲目がライオネル・ニューマンの楽曲であったこともあり、ワロンカー家とニューマン家は家族ぐるみの付き合いがあった。レニー・ワロンカーとランディ・ニューマンは幼馴染の間柄ということである。その幼馴染のランディ・ニューマンの楽曲をここからレニーワロンカーは自身のプロデュース作品で多用していく。レニー・ワロンカー、ヴァン・ダイク・パークス、ランディ・ニューマン、この3人が核となり《バーバンクサウンド》が展開されていくこととなる。
The Tikis(Harpers Bizarre)
オータム・レコードで数枚のシングルをリリースしていたThe TikisはHarpers Bizarre(ハーパース・ビザール)と名を変えてワーナーから再デビューすることに。その際Tikisではドラムを叩いていたテッド・テンプルマンがギターボーカルへとパート・チェンジしている。
67年1stアルバム『Feelin' Groovy』をリリース。これもヴァン・ダイク・パークスとランディ・ニューマンが楽曲提供、アレンジの面で関わっている。しかし特筆すべきはシングルとしてもリリースされたサイモン&ガーファンクルの名曲のカバー〝59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)〟のアレンジをレオン・ラッセルが手がけたことだろう。フィル・スペクターサウンドをサポートしたレッキング・クルーの一員としてすでにキャリアをスタートさせていたレオン・ラッセルをレニー・ワロンカーがこのアルバムで大きく起用。約半数の曲でアレンジャーとして参加し、作曲者としても〝Raspberry Rug〟を提供。このハーパース・ビザールの1stにおけるレオン・ラッセルの貢献は非常に大きいが、レニー・ワロンカーはレオンラッセルをこのまま《バーバンクサウンド》を型作る一員として囲うことはできなかった。ご存知の通り、68年にレオン・ラッセルはマーク・ベノとのデュオでデビューし、デラニー&ボニーと出会い、70年にはソロデビュー、スワンプ・ロックのパイオニアとして独自の道を切り拓いていくこととなる。《バーバンクサウンド》とは別の方法で「アメリカらしさ」を追求していったのだ。
オータム・レコード勢再プロデュースの成功
モジョ・メン、ボー・ブラメルズ、The Tikisの3バンドはオータムレコード時代はブリティッシュ・ビートに大きく影響を受けたガレージ/フォークロックバンドであった。それをレニーワロンカー、ヴァンダイクパークス、ランディニューマンによるプロデュース、アレンジによって古いアメリカポピュラー音楽を彷彿とされるソフトロックに生まれ変わらせたのだ。古い音楽として忘れられようとしていた40年代以前のアメリカポピュラー音楽を踏襲した独特なサウンドは《バーバンクサウンド》と呼ばれていくことになる。これは本当にこの界隈独自の音作りであり、楽器的にはハープシコードやストリングス、管楽器らによって彩られているが同時期に見られる《バロック・ポップ》とは区別されるべき音楽性であることを僕は前回から主張しているわけだ。
もしものコーナー
もしもの話を一つすると、もしグレース・スリックがジェファーソン・エアプレインに引き抜かれていなければ、グレート・ソサエティもレニー・ワロンカーの手によってバーバンク・サウンド化/ソフトロック化してたかも…まぁ結局グレート・ソサエティはコロンビアからコンピ盤を出すんだけど。
あともう一つは元祖シスコサイケと呼び声の高いシャーラタンズ。グレイトフル・デッドより早くLSD実験の場でのサイケデリックライブを行ったバンドとして有名なシャーラタンズだが、契約直後にオータムレコードが倒産し露頭に迷った不運なバンドである。何かしらの事情でワーナーに引き継がれず露頭に迷ったわけだが、彼らも何か一つボタンの掛け違いがあればバーバンクサウンド化していた可能性もあったんだよな。シャーラタンズは66年にカーマストラレコードと契約するがゴタゴタがあり破棄。69年になりようやくフィリップスレコードからアルバムが一枚リリースされた。
続く!
長くなりそうなので2回に分けます!次回は68年、オータム勢の再プロデュースに成功した後、さらに加熱していくバーバンクの物語を!
では!