ケンジロニウスの再生

ロック史を追いながら関連図を作成(関連図挫折中)

パンク後の世界〜二巡目のロック史〜

ジョジョリオン』の最終巻を読んで

ジョジョの奇妙な冒険』の第8部『ジョジョリオン』が完結した。ちんぷんかんぷんのまま10年かけてちらちら読み続け、ほぼほぼ理解不能だったがなんとなく感動のフィニッシュだった。『ジョジョの奇妙な冒険』はDioという男とジョースター一族の壮大な因果を描いた長編漫画で、『ジョジョリオン』はその第8部にあたる作品。ジョジョの作者である荒木飛呂彦は無類のロック好き(特にプログレ)で、作品内に登場するキャラクター名や能力名はバンド名やアルバム名や曲名からとったものがほとんどであり、ロック好きなら2倍楽しめる漫画となっている。

しかし僕が熱心に読んでいたのは第6部までで、7部と8部ではその熱は少し冷めてしまった。7部から連載誌がジャンプからウルトラジャンプに移ったことが要因の一つだが、それ以上に第6部でジョジョの壮大な冒険は実質終わってしまったと言えることが大きい。

ジョジョの物語は19世紀末のイギリスから始まり、そこで出会ったジョナサン・ジョースターディエゴ・ブランドーDio)という2人の青年の因果がその後100年以上続いていくこととなる。第2部はジョナサンの孫ジョセフ・ジョースター、第3部はさらにその孫の空条承太郎、第4部はジョセフの隠し子である東方仗助、第5部はDioの息子ジョルノ・ジョバーナ、第6部は承太郎の娘の空条徐倫、とジョースターの血を継ぐもの達を各章の主人公に据えて物語を紡いでいくわけだ(ここでは説明は省くがDioの息子であるジョルノジョバーナもしっかりジョースターの血を引いている)。まぁこの壮大なストーリーと能力バトルとクセの強いキャラがジョジョの魅力となっている。

そしてシリーズ初の女性主人公となった第6部のラストは衝撃的なものだった。舞台は2011年のアメリフロリダ州の刑務所。そこで主人公が戦う第6部のラスボスは〈時を加速させる能力〉の使い手であり、最終的に無限に時を加速させて宇宙を一巡させてしまうという暴挙にでる。結果、登場人物の内たった1人だけが「一巡後」の2011年アメリカに辿り着くが、そこに生きる人々は一巡前と同じようで違う人々。なんとも奇妙なエンディングだった。

その後連載された第7部の舞台は19世紀末のアメリカであり時代的にはほぼ第1部と同じだ。ジョースターDioも登場し、相変わらずな世界観を展開していくが、これは「一巡後」の19世紀末。

第8部『ジョジョリオン』の舞台は現代の仙台市をモデルにした杜王町という架空の町であり、これは第4部と同じ舞台だが「一巡後の杜王町」だ。

僕が7部8部に熱が入らなかったのはこの「一巡後の世界」を受け入れられなかったことに他ならない。設定的には時を無限に加速させ、宇宙が消失し、またビッグバンで宇宙が誕生し、地球ができ、地球に生命が誕生し、人が生まれ、文明を築いた世界なので時間軸的には直線ではあるが、やはりパラレルワールドだと思ってしまう。

 

さて、したいのはジョジョの話ではなくパンクの話だ。僕は常々70年代前半までがロックの黄金時代だとのたまっているが、それは70年代半ば以降を「一巡後」だと感じているからなのかもしれない。そのニ巡目の始まりを告げたのがパンクムーブメントだろう。

パンク後の世界〜二巡目のロック史〜

ロック史の分断地点

僕はこの2021年を生き30歳を過ぎて尚ロックを志すどうしようもない男だが、羨望するロック黄金時代(60's半ば〜70's前半)との間にある大きな壁を常に感じながら日々奮闘している。60'sからこの2020'sまでロックは様々に形を変えてきたが、どこかの地点で明らかにロックの流れが分断されていると感じるのだ。実のところ最近まで僕はその分断地点を《オルタナティヴ・ロック》の登場地点だと考えていた。「オルタナ以前、以降」でロック史を分断して受け止めてきた。それは完全に【alternative(既存のものにとって代わるもの)】という言葉に引っ張られた形であったのだろう。

最近Apple Musicを解約し、所持しているCDやレコードをちゃんと聴きなおそう、というシーズンに入っている。このシーズンは周期的に自分の中に訪れるようでApple Music解約はこれで3回目だ。一度解約すると再びApple Musicを始めてもライブラリが真っ白になるので面倒だが、アルバムをライブラリに加えていく作業もそれはそれで面白いので良しとしている。

そんなことで所持しているCDを年代にかかわらず片っ端から聴きなおす日々を送っているわけだが、そんな中でロックの分断地点は「オルタナ誕生」ではなく「パンクの誕生」であるという認識に変わったわけだ(というかオルタナの誕生=パンクの誕生か)。パンクのブームは短かったが、その後に続いていくポストパンク、ニューウェーブ、インディーロックが生まれていく道程には明らかに〝流れ〟がある。

《ガレージロック》のその先の世界

60'sロックは形を変えながら70年代へと受け継がれていった。ブルースロックがハードロックになり、サイケデリックロックやバロックロック、エクスペリメンタルはプログレッシブロックへ、ソフトロックはAORへ。60年代のロックが形を変えてよりスケールが大きく大げさになり、複雑になり、スタジアム化していったのだ。僕は60'sロックが好きだが、世界中が1番ロックに熱狂したのは70年代だろう。そんな70年代に受け継がれることなく埋もれてしまったのが《ガレージロック》だ(もちろん絶えることなくガレージバンドはいるがアングラからは出れてない。)。

パンクはガレージロックへの回帰を掲げて誕生した音楽ジャンルである。肥大化しすぎたロックに異を唱え、ロックの初期衝動と、DIY精神、そこへ立ち返る動きだった。そんなパンクもガレージロックと同様に寿命は短く数年でブームは去ってしまう。しかしガレージロックと違ったのはその先へと枝が伸びていったことだろう。ポストパンク、ニューウェーブ、インディーロック、グランジ、ブリッドポップも。パンクの誕生は枝分かれしなかったはずのガレージロックのその先を生むことになったわけだ。この2021年というのはそこから繋がってきた世界。僕がロック黄金時代に途方もない距離を感じているのは、僕が二巡目の世界に生きているからってわけだ。

 

そもそもロック史を分断する必要があるんか、そんなもんに一巡目も二巡目もないやろ、とお思いの方もいるかと思うが、僕は今非常にスッキリしている。ガレージが苦手で、パンクを聴かず、そして75年以降をないがしろにしていることの辻褄が合うから。

かといってそのパンク以降の「二巡目」にそう否定的なわけでもない。それは決してパンクの登場が「一巡目」消失の原因ではないからだ。「一巡目」が駄目になったからパンクが登場したのであって。よく、プログレはパンクに殺された、と言うが、それは絶対に違う。プログレは限界を迎えて自滅したのだ。もし仮にパンクが登場せず、ポリスもスミスもR.E.Mもニルバーナもスマパンレッチリレディオヘッドも生まれずエイジアや後期Yesや後期ジェネシスや商業ハードロックばかりのロックシーンになっていたらと思うとゾッとする。

DIY精神

パンクは反逆精神や3コード進行への回帰やファッションや様々な要素を持っていたが、結局のところ80's、90's、そして現在まで受け継がれているのはDIY精神じゃないだろうか。【Do It Yourself(やってみよう)】。ガレージロックはR&Rやブリティッシュインヴェイジョンの影響を受け「やってみよう」精神で60年代半ばアメリカで多く誕生した。R&Rの進行や反逆精神、ビートルズらブリティッシュビートのポップネス、ストーンズやアニマルズらが思い出させたブルース、が音楽的影響源だ。ガレージロックというのはその名前の通り、それらに影響を受けた若者がガレージで演奏を始めたものである。楽器さえあれば、学がなくとも「やってみれる」、それがロックの初期衝動だった。そういう「場所」的な要素もガレージ精神には大きく関わっている。70年代頭イギリスの《パブロック》もそんな理由でロンドンパンク誕生に一役買っていたり。ガレージやパブといった「小さな場所」もスタジアム化していったロックと対照的な要素だ。

60年代半ばからロックは急激に多くのものを吸収して進化していった。始まりはやはり65年ビートルズ「ラバーソウル」だろうか。バロックを取り入れ、民族楽器を取り入れ、そして芸術性を手に入れた。66年にはビーチボーイズが「ペット・サウンズ」をリリース。緻密なアレンジと、スタジオミュージシャンによる精巧な演奏はロックの作品性を何ランクも上げることとなる。同66年ビートルズは「リボルバー」をリリース。サイケデリックの幕開けとなったこのアルバムでは斬新なレコーディング方法を使用し、それはジェフ・エメリックという凄腕エンジニアが成せる技だった。そうしてロックは僕の愛する誇り高き黄金時代に突入する。

その黄金時代は学と、職業ミュージシャンと、裏方スタッフが必要不可欠な時代だったと言えるだろう。それはもはや「やってみれない」音楽達、ガレージ精神が通用しない音楽だった。そうしてR&R精神やロックの初期衝動は薄れていったのだ。

そんなロックの芸術性が高まった60年代後半、アメリカのガレージロックバンドのほとんどは無視されることとなった。今では超重要作品として扱われているヴェルヴェッツの67年1st『Velvet Underground&Nico』も当時は5年間でたったの3万枚しか売れなかったらしい。ただ「このアルバムを買った3万人全員がバンドを始めた(ブライアン・イーノ談)」と言われるように「やってみよう」と思わせる何かがあった。とはいえヴェルヴェッツは元職業作曲家のルー・リード、現代音楽家ジョン・ケイル、そしてアンディ・ウォーホールというパトロンがいてこそのバンドであるのでガレージ精神の塊とは言い難い(僕はエクスペリメンタルロックだと認識している)。単純な進行も現代音楽としてのドローンミュージックを試みた結果だったり。それでも「やってみよう」「おれでもできそう」と思わせた結果が密かにパンク登場までガレージ精神を繋ぎ、後に《オルタナのビッグバン》と呼ばれるほどの扱いを受けることになるわけだ。

ロンドンパンクの象徴であるセックス・ピストルズもそうで、あれは純粋なガレージ精神から生まれたわけではなく、実質マルコム・マクラーレンによって作られたバンドだった。しかし若者達に「やってみよう」と思わせる何かがあったのだ。

つまりはガレージ精神というのはDIY精神(やってみよう)によって受け継がれていき、それは結局反逆精神やそのスタンスに触発されたというより「シンプル(に聴こえる)だからできそう」ということに他ならないように思う。ガレージ精神というのはとどのつまりシンプル精神だと言ってしまうのは少し乱暴だが、それに近いものはある。

パンクはロックのシンプル化の役目を果たした。そしてその時代の情勢も相まって爆発的なムーブメントとなり後続バンドに大きな影響を与えた。数年後に登場するポストパンク/ニューウェーブはまた多くのものを吸収していくわけだし、もちろん職業音楽家や裏方の人間もガンガン活躍していくわけだが一巡目のような末路を辿らずこの2021年まで繋がってきているわけだ。

終わり!

あれ?スッキリしたはずやのによくわからんくなってきたな…あ、そう!黄金時代ってのは違う時間軸なので、「古い」と言わないでくれ、という話だ。今「古い」と言えるのはパンクやガレージだけ!んー、違うか。

まぁ『ジョジョリオン』を読んで、そんなことを思ったという雑記です。そう考えると一巡目の残骸とならず二巡目に適応したデヴィッド・ボウイとかってすごいなーと思う。ボウイの80年以降の聴き方が変わってくる予感。ポリスの面々とかも元々完全に一巡目の人間で結成されてるわけで、見事な適応。

どうしても黄金時代を主軸に考えてしまう僕にとってはやはりパンク以降はパラレルワールドになるわけだが、それでも素晴らしいと思う音楽はたくさんある。なわけで次からは89年という二巡目の世界に生まれ落ちた僕の聞いてきた二巡目のロックを振り返ってみようかと。まぁまずはやはりパンクかな、そんなに知らないんだけど。

では!

 

 

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