ケンジロニウスの再生

ロック史を追いながら関連図を作成(関連図挫折中)

4-1 ロンドンアングラとシド・バレット

ファン

『ファン』という言葉に少しばかりの抵抗があって、「めちゃくちゃ好きだけどファンではない」って言い張る事が多々あるんだけれど。ではファンになるとはどんな状態になることなのかと考えると僕は「下敷きが欲しいか」だと思っている。シャーペンでもクリアファイルでもいいけど。いわゆるグッズ、音楽そのものに全く関係ないものまで欲しいかどうかである。

僕はほんとに数えきれないほどのバンドやミュージシャンが好きだけど、グッズを欲しいとはあまり思わないということだ(デヴィッドボウイ展に行った時にタコス屋でビールを買ったら付いてきたアラジンセインのコースターだけは持ってる)。

そんな僕でもファンであると言えるんじゃないかってミュージシャンが3人いる。つまり文房具屋にその人の下敷きがあったら買っちゃうかも、って3人。それがジョンレノン、ボブディラン、そしてシドバレットである。

音楽を聴いて、感動した、好きだ、なんてミュージシャンは腐るほどいるが「この人になりたい」と憧れてしまったのはこの3人くらいである。ジョンはカリスマとして、ディランは男として、シドバレットは狂人として、それぞれ若き日の僕のアイドルとなったのである。

4-1 ロンドンアングラとシド・バレット

f:id:kenjironius:20190517073919j:image

さて前回までの3章ではプログレッシブロックの代表的なバンドを見てきましたが、3章での繋がりからブリティッシュサイケ、ロンドンサイケに行けるんじゃないかと思って4章ではそっちへ。

てなわけでひとまずは僕のアイドル、シドバレットとロンドンアングラについて。

ピンクフロイドの回で少し触れたように、シドバレットは初期ピンクフロイドの中心人物であり、LSDの過剰摂取によりバンドを追放された後もピンクフロイドのメンバーに影響を与え続け、後に世界的に成功することになるピンクフロイドの原動力となったとされる男である。

僕が彼を知ることにかるきっかけはやはりピンクフロイドの「狂気」であり、ピンクフロイドに夢中になる中で当然シドバレットへとたどり着くわけだ。そこからシドバレット作品や彼の過去に触れ始め、気づいたら僕のアイドルになっていた。

若い日の僕はロックスターがドラッグで狂っていく様やその破滅的な人生にどこか美意識みたいなものを感じていた。そのことがある種人生に対してピュアであると感じていたのだ。

なのでもちろんローリングストーンズのブライアンジョーンズやドアーズのジムモリスン、ジミヘン、ジャニスジョプリンなんかのいわゆる「27クラブ(27歳で死んだミュージシャン達の総称)」にも夢中になった。ちなみにシドバレットは60歳まで生きたが、彼が完全に音楽を離れて実家に帰った73年ごろの彼の年齢は27である。おぉ。

60年代後半、サマーオブラブ、ヒッピームーブメント、サイケデリック、ドラッグカルチャー…そんな時代に生きたロッカーはやはり魅力的な狂人だらけであるがその中でもシドのポップセンスや言葉、様々な逸話や異常性に僕は1番惹かれてしまったわけである。

そんなシドバレットを作った少年時代とロンドンアングラシーンを今回は見ていこうと思う。

少年時代

f:id:kenjironius:20190517073911j:image

ロジャー・キース・バレット(本名)は46年にケンブリッジの割と裕福な家庭に生まれ、10歳のころにはロックンロールに夢中になり音楽探求に目覚め始める。家に友達を招待してレコード鑑賞をするなどしていたが、後にシドの代わりにピンクフロイドに加入するデヴィッドギルモアはこの頃からの友人である。

60年代になるとロックンロールは卒業し、マイルスデイビスやジミースミスなどのジャズにも興味を持ち地元ケンブリッジのアマチュアジャズマンが集まるパブにも出入りするようになる。そこには「シドバレット」というドラマーがいて名字が同じだということでロジャーキースバレット少年も仲間から「シド」と呼ばれるようになる。シドバレットの誕生だ。

シドは62年にデビューしたブッカー・T&ザ・MGズ、ボブディランなどにもいち早く反応した。ディランがイギリスでヒットするのは64年になってからであり、62年のデビュー時はまだ知る人ぞ知るフォークミュージシャンであったことからシドはかなりの音楽通であったことが伺える。この頃にはギターを弾き始めるようになり63年に「ボブディランブルース」という曲も作っている(未発表音源として近年公開された)。

自国イギリスのブリティッシュビートにも敏感に反応し、62年デビューであるビートルズにもちろん夢中になり、63年にはローリングストーンズがケンブリッジでライブを行った際に見に行っている。

ほんとにどこにでもいるような少年だったのだ。特徴としては新しいものに対する反応の早さであり、こうした直感的な感覚が初期ピンクフロイドの活動へと繋がっていくのだろうか。

ピンクフロイド結成

f:id:kenjironius:20190517073858j:image

64年、16歳になったシドはアートカレッジに通うためにロンドンへ移り住む。この時の下宿先で部屋を分け合ったのが同郷のケンブリッジ出身であり建築学校に通う2学年年上のロジャーウォーターズだった。シドはロジャーのバンドに加入し、ストーンズのカバーなどを中心に活動する。

画家を目指してアートカレッジに進学したシドだが、65年にはもうすでに学校に興味を失っていた。自分の絵の才能では卒業してもせいぜい美術教師にしかなれないと悟ったためのようだ。画家への道を挫折したシドはこの頃から本格的に音楽活動にお熱になる。

バンド内では1番歳下であったが、リーダーシップをとり徐々にバンドはアート志向に変貌していく。この時期にバンド名の「ピンクフロイド」もシドによって命名された。

どこにでもいるありふれたR&Bバンドだった彼らは65年が終わる頃には独自性を持った斬新なバンドへと変貌していた。シドのアート志向(リキッドライトによる照明、独自のギターチューニングや演奏方法など)によるところが大きいが、この型破りなスタイルが徐々に受け入れられていくことになる。

ロンドンアンダーグラウンドの誕生

f:id:kenjironius:20190517074147j:image

(65年ロイヤルアルバートホールでのアレンギンズバーグの詩の朗読)

60年代半ばにアメリカで生まれたカウンターカルチャーが海を越えてイギリスに渡って来たのがちょうどこの頃であり、東洋思想、ビートニク文学、前衛芸術、ヒッピー・ファッション、そしてLSDが、アメリカから続々と持ち込まれイギリスのアンダーグラウンドシーンを形成していった。同65年にはアメリカのビート作家であるアレンギンズバーグらがロイヤルアルバートホールで詩の朗読会を行ったが、会場を埋め尽くすイギリスの若者はギンズバーグ達の型破りな詩に衝撃を受け、「既存の形式にとらわれない」アートや人生観を持つようになる。

こうした流れをいち早く察知し吸収したシドはバンドをガラリと変貌させたのだ。

アメリカのカウンターカルチャーに触発されたのはミュージシャンや芸術家だけではなく、若いインテリにも影響を与え始める。若き経済学者であったピータージェナーアンダーグラウンドに興味を持ち始め、66年にマーキークラブにて開催された「スポンテイニアス・アンダーグラウンド(自然発生したアンダーグラウンド)」というイベントに足を運ぶ。これまでロックをまともに聞いたことがなかったピータージェナーだがこのイベントでのピンクフロイドに衝撃を受けマネージャーになることを申し出る(インテリとロックを結びつける役割も果たしたカウンターカルチャーの輸入であるが、同じようにクラシックやジャズの界隈にいたインテリミュージシャンもロックにガンガン参入してくるようになりこの事が後のプログレッシブロック誕生のきっかけになったとも言えるだろう)。

ピータージェナーは友人でありエレクトラレコードの社員だったジョーボイドピンクフロイドのテープを持ち込むことにした。ボイドは気に入り、エレクトラレコードの上司に推薦するがこの時は認められなかった。レコードデビューのチャンスを逃したものの、ピンクフロイドの人気は着々と高まっていく。

いやしかしピンクフロイドのマネージャーになる経済学者ピータージェナーと67年にピンクフロイドのデビューシングルのプロデュースを務めるジョーボイドだが、なんと当時23、4歳である。裏方の人間も若いというのはこうした新たなカルチャーの誕生の特徴だなぁ。

66年10月にジョン・"ホッピー"・ホプキンズというロンドンカウンターカルチャーの象徴である写真家がアート誌「インターナショナル・タイムズ(IT)」を発刊し、これがロンドンヒッピー達の必読誌となる。

その創刊記念イベントがラウンドハウスで開かれるわけだが、そのイベントの目玉がピンクフロイドソフトマシーンであった。

このイベントにはポールマッカートニーもアラブ人の格好をして参加している。後にカウンターカルチャーの象徴となるのはジョンレノンの方だが、ロンドンのアングラの動向に先に興味を示したのはポールの方でITの発刊にも積極的に支援した。雑誌のインタビューでLSDの服用を認めるなど、この時期のポールはカウンターカルチャーにかなりお熱だったのだ。

とにかくこのイベントでのピンクフロイドの圧倒的パフォーマンスは新聞でも報じられ、これがロンドンサイケデリックシーンの幕開けとなる。

このITというアート誌の資金調達目的でオープンしたのが「UFOクラブ」というライブハウスである。ジョンホッピーホプキンスとジョーボイドによって66年12月に開かれた。UFOは「アンダーグラウンド・フリーク・アウト」の意である。

ピンクフロイドを始めとしてソフトマシーン、プロコルハルム、トゥモロウなどの名だたるバンドが出演しロンドンサイケが爆発する。他にも前衛的なダンサーや詩人がパフォーマンスを行うなどロンドンアングラの聖地となる。

f:id:kenjironius:20190517081053j:image

(一応図を、図のためのブログやのに図を忘れがち…)

シドもこの時期を「みんながステージを使って思い思い好きなことを表現してて楽しかった」と後に振り返っている。

雑誌ITの資金調達を目的としてUFOクラブの運営の他にロンドンサイケの伝説のイベントとして有名な「14アワー・テクニカラー・ドリーム」が67年4月に行われた。この模様は「ア・テクニカラー・ドリーム~ロンドン・サイケデリアの幻想」というDVDで見ることができるのでサイケとは何ぞやって人は是非見ていただきたい。

テクニカラードリームにはソフトマシーン、プリティシングス、ザ・ムーブ、アレクシスコーナー、アーサーブラウン、オノヨーコなど総勢41組が出演し、そのトリをピンクフロイドが務めた。この時点でピンクフロイドはロンドンアングラの頂点に君臨していたと言える。

ホッピーが麻薬所持で逮捕されたことでUFOクラブは67年10月に閉店することになる。結局1年もたたずでの閉店であった。

そんな65年に輸入されたカウンターカルチャーを発端に始まった66〜67年のITの発刊イベント、UFOクラブ、テクニカラードリームというロンドンサイケの流れの中心にシドバレットとピンクフロイドはいたのだ。

その熱気溢れるロンドンサイケブームの最中の67年3月にシングル「アーノルドレーン」でピンクフロイドはデビューしている。プロデュースはエレクトラレコードを退職したジョーボイド。全英20位を記録し華々しいデビューを飾った。

LSD

以上がロンドンアングラとピンクフロイドデビューまでの簡単な関わりであるが、アメリカから輸入されたカウンターカルチャーの一つであるLSDもロンドンアングラに深く関わっている。66年に非合法となるLSDだが、ポールマッカートニーも合法化を訴え、ピンクフロイドのマネージャーであるピータージェナーや、ITの創刊者であるホッピーもLSDを推奨しておりロンドンアングラの中心にいて、新しい物に敏感なシドももちろん虜になった。シドが初めてLSDを使用した際には友人であるヒプノシスのストームソーガソンも一緒であったという。

そんなLSDを推奨する空気感を持ったロンドンアングラシーンであるが、みんながみんなやっていたわけではなくロジャーウォーターズは2回しかやったことがないと後のインタビューで語っている。そんなわけで67年のデビュー時の段階ですでに奇行が目立ち始めるシドバレットとピンクフロイドのメンバー間にズレが生じて68年にはシドがバンドを追放されることになるわけだ。

ん…このままシドのソロまで書くと超絶長くなりそうなので、とりあえずここまで!次回はシドとデビュー後のピンクフロイド、70年のソロアルバム、そして音楽業界からの完全撤退を見ていきます。

4章はロンドンサイケ!UFOに出演していたイエスのスティーブハウがいたトゥモロウや、青い影で有名なプロコルハルムなんかにも触れていけたら!前回までプログレについて熱く語っていたがサイケロック、アシッドフォークが1番好きなのよ僕。楽しみ楽しみ。

Try Apple Music