4-5 サイケの貴公子“ドノヴァン”
前回はプロコルハルムについてであったが、最後にドラムのB.J.ウィルソンが参加したジョー・コッカーの69年デビュー作「With a Little Help My Friends」について触れて終わったのでそこから続きを。
「With a Little Help My Friends」にはB.J.ウィルソンの他に同じくプロコルハルムのマシュー・フィッシャー、レッドツェッペリン結成前のジミー・ペイジ、トラフィックのスティーブ・ウィンウッドなど名だたる面子が参加している。中でもジミーペイジの功績は大きく、ビートルズの曲である「With a Little Help My Friends」を三拍子にしゴスペル調のパワーバラードにアレンジしたのはジミーペイジであり、イントロのダブルチョーキングも印象的だ。なわけで少しジミーペイジについて。
ジミーペイジはセッションギタリストとして63年ごろにキャリアをスタートさせており、様々なレコーディングに参加した後66年にヤードバーズに加入。67年に「Little Games」をリリースした後ヤードバーズは空中分解、68年に新たなバンド、ニューヤードバーズ(レッドツェッペリン)を始動させる為メンバーを探している最中でのジョーコッカー「With a Little Help My Friends」への参加であった。前回も言った通りそこで一緒だったB.J.ウィルソンをレッドツェッペリンに誘うがすでにプロコルハルムで成功していたので叶わなかった。
ボーカルにはテリー・リード(めちゃくちゃいいのよテリーリード)を誘ったがこれも叶わずリードによる推薦でロバート・プラントが加入。ドラムはプラントの友人であったジョン・ボーナムに決まる。ベースはペイジとセッションミュージシャンとして交流のあったジョン・ポール・ジョーンズに決まり、レッドツェッペリン結成、69年にデビューとなる。
69年になるとサイケデリックブームは終わりを迎えており、やはりレッドツェッペリンにサイケ臭はほぼなく、ご存知の通りハードロック、プログレッシブロックといった路線で大成功をおさめるわけだ。
お、今回はツェッペリンの話をしたいのか。とお思いかと思うが、そうゆうわけでもなくて。結局どこへ話を運んでいきたいかというと、サイケデリックのイメージのないレッドツェッペリンだけど、60年代前半からセッションミュージシャンとして活動していたジミーペイジ、ジョンポールジョーンズもちゃんと例に漏れず66〜68年ごろにサイケ作品に携わってるってこと。
ジミーペイジ在籍時唯一作のヤードバーズ67年「Little Games」はしっかりサイケしてるし、ジョーコッカー「With a Little Help My Friends」もちゃんと香りが残っている。
ジョンポールジョーンズはヤードバーズ「Little Games」にベース、チェロ、オーケストラのアレンジャーとして参加したり、ローリングストーンズ極上のカラフルサイケ曲「She's a Rainbow」にてストリングスアレンジを担当したりとマルチプレイヤーとしてしっかりサイケ作品に貢献している。
そして2人が66〜68年にたびたび参加しているのがサイケの貴公子Donovanの作品なのである。66年3rd「Sunshine Superman」にジミーペイジ、67年4th「Melloy Yellow」でジョンポールジョーンズ、68年6th「The Hurdy Gurdy Man」に2人揃って参加している。
2人は以前にも共に仕事をしたことがあったが「The Hurdy Gurdy Man」での再会がレッドツェッペリンにジョンポールジョーンズが参加するきっかけになったと言われている。
後にツェッペリンを結成する2人をバックに従えてサイケデリックロック作品を世に放ったドノヴァンという男について今回は見ていこうと思う。
4-5 サイケの貴公子“ドノヴァン”
4章はロンドンサイケ!なんだけどスコットランド人のドノヴァンを。
彼は《イギリスのディラン》と言われフォークシンガーに位置付けられることが多いが、僕は完全にサイケの人だと思っていて。確かにディランとよく似たスタイルのフォークシンガーとしてデビューしたんだけど、この《イギリスのディラン》というキャッチコピーが彼への評価を狂わせている要因となってしまった。
ドノヴァンが1番世間的にヒットしたのは66年〜68年ごろのサイケ期であり、初期のフォーク時代はイギリス国内のみの人気に留まっていた。なので、「あのサイケのドノヴァンって初めはディランみたいなフォークやってたんだよ。」が普通のはずなのに《イギリスのディラン》という印象のせいで「フォークシンガーのドノヴァンも時代の流れに乗ってサイケをやってたんだよね。」程度に捉えられがちなのだ。
いやいやいやいや、いかに彼のサイケデリアが美しく素晴らしいものであるか。
とはいえ十分評価されてはいるので「過小評価されている」という表現を使うのは難しいところではあるが、それでも過小評価されていると言いたくなるのがサイケの貴公子ドノヴァンという男なんだよな。
まぁしかしやはりフォーク時代のデビューから見ていきましょうか。
フォークシンガー“ドノヴァン”デビュー!
1946年スコットランド、グラスゴー生まれのドノヴァン・フィリップス・レイッチは家族の影響でスコットランドやイングランド民謡を愛する少年であった。14歳でギターを始めフォークソングを演奏し始める。
65年デビュー作の「What's Bin Did and What's Bin Hid 」と同年2nd「Fairytale」はアコースティックギターの弾き語りとハーモニカのまさにディランなスタイルに、まさにディランな楽曲、まさにディランなフォークサウンド(裏方も明らかに意識している)である。2枚のアルバムからは「Catch The Wind」や「Colours」などのシングルがヒットし本国イギリスですぐさま人気者となる。
ディランと違い政治色の強い反体制的な歌詞ではなく恋についてのものが多く、そう難しくもない。優しい歌声も相まってかプロテスト派のフォークファンからはやや軟弱な印象を持たれたようである。やはりディランの「Blowin' in The Wind(風に吹かれて)」と並べて見てしまうデビュー曲「Catch The Wind」では女性への想いを連ねるがそれは〝風を捕まえるくらい難しいことだ〟と恋が叶わないことを歌っている。
僕はサイケサイケとうるさく言っているがこの時期のドノヴァンも大好きで、まさにディランなのにどこかディランとは違う優しさを持ったドノヴァンの歌は本当に心地いい。
メディアも面白がって2人を比較していたこの時期のドノヴァンとディランの貴重な2ショット映像がディランのドキュメント映画「Don't Look Back」に残っている。この67年に公開されたこの映画はディランの65年イギリスツアーに密着したドキュメント映画でありその中でのワンシーンにホテルなのか楽屋なのかわからないがとある部屋にディランが仲間といるところにドノヴァンが訪ねてくるシーンがある。ドノヴァンは堂々と振舞っているがかなり物怖じしてるような印象、いや実際のとこはわかんないんだけど、変にハイなディランと弱々しい喋り口調のドノヴァンが対照的で。
(左がドノヴァン)
ギャング集団の中に善良な市民が放り込まれたかのような雰囲気の中、ドノヴァンが1stアルバム収録の「To Sing For You」を歌い始めるんだけど、これがめちゃくちゃいいのよ。人がわちゃわちゃいる落ちつきのない部屋なんだけど、曲が始まるとみんな大人しくなりディランもちゃんと座って聞いてて、ディランは曲の途中で「It's a good song!」と声をあげる。なんだろう、なんか泣きそうになるんだよな。
曲が終わると今度はディランがギターを取るわけ、そしたらドノヴァンが「It's all over now,baby blueを歌ってよ」と少し挑戦的(しかし声は弱々しい)に言い、ディランは「It's all over now,baby blue」を歌いだす。
明らかにギターも歌もドノヴァンの方が丁寧で上手なんだけど、ボブディランという男は恐ろしい。空気を全部持っていくのよ。ディランの歌に聞き入ってるドノヴァンの弱き表情も良いし。
ほんとに何度も見ても感動するシーンなんだけど、カメラを意識してるのかしてないのかわからないがドノヴァンが1曲歌ってディランが1曲返すというこんな出来事が実際にあったんだなぁって。
ディランのこの65年4月のイギリスツアーは全編弾き語りのフォークスタイルで歌う最後のツアーになった。3月にはすでにエレキギターを持ちバンドをバックにつけたフォークロックアルバム「Bringing It All Back Home」をリリースしており、このツアーを最後にフォークの王様ディランはロックの王様への道を進むことになる。この音楽的変化はビートルズやストーンズなどイギリスのロックバンドがアメリカへ侵攻した、所謂ブリティッシュインベイジョンの影響によるところが大きい。
フォークの王様を動かすほどの衝撃をアメリカに与えたイギリスのロックだったが、今度は逆にベトナム戦争を背景にアメリカで生まれたカウンターカルチャーがイギリスへ持ち込まれることとなる。ヒッピー文化、東洋思想、ビート文学、LSDなどがその内容であった。この65年のディランのイギリスツアーにはビート作家の代表格であるアレン・ギンズバーグが同行しており、アメリカからイギリスへのカウンターカルチャーの輸送屋としてディランが1枚噛んでいるとも言える。
ディランがロックの道へ突き進むのと同じように66年、ドノヴァンもロックバンドを従えていくことになるが、そこにこの新たに輸入されたカウンターカルチャーの風も受け、ドノヴァンはサイケデリックロックへの道へ進むわけだ。
イギリス最初のサイケロック
世界初のサイケデリックロックはアメリカ合衆国西海岸のフォークロックバンドThe Byrdsが66年3月にリリースしたシングル「霧の8マイル」だと言われている。
それではイギリス初のサイケデリックロックは一体誰の作品だったのか。前に言ったように、67年8月に「夜明けの口笛吹き」でデビューしたピンクフロイドがイギリス初のサイケデリックバンドだと言われている。しかしサイケデリックバンドだという認識はないがサイケデリック作品を残していたブリティッシュロックバンドはそれ以前に存在し、66年8月リリースのビートルズの「リボルバー」がイギリスで最も早いサイケデリックアルバムであると言えるだろう。
ビートルズ以外のブリティッシュインヴェイジョン勢のサイケ作品でいうと67年5月プリティシングス「Emotions」、67年6月ホリーズ「Evolution」、67年8月ヤードバーズ「リトルゲームズ」、67年11月ローリングストーンズ「サタニック・マジェスティーズ」、67年12月The Who「セル・アウト」などがサイケデリックアルバムと言えるだろう。そんな中、ドノヴァンのサイケデリックアルバム「Sunshine Superman」のリリースが「リボルバー」と同じく66年8月であることに強く注目したい。
*実はよくよく調べてみるとジェフベック在籍時のヤードバーズ66年7月「ROGER THE ENGINEER」が最初のブリティッシュサイケなんじゃないかって説が僕の中で浮上していて。やはりブルースロック中心であるがすでにインド音楽を取り入れているし、何より邦題が「サイケデリックのエース」……僕このアルバム持ってないんだよね……サイケ好きを公言しときながらイギリス初のサイケアルバムを持ってないなんて恥ずかしいので、やはり「リボルバー」が最初ということにしときます。笑
「ROGER THE ENGINEER」はブルースロックだブルースロック!
ファンタジーとメルヘンとサイケデリア
イギリスのサイケデリックロックブームはアングラとメインストリームの両方向からアプローチによって盛り上がることとなる。
65年ごろにアメリカからヒッピー文化、東洋思想、ビート文学、LSDなどのカウンターカルチャーが輸入され生まれたロンドンアンダーグラウンドシーン。ロンドンヒッピーの愛読誌となるアート誌「IT」関連、UFOクラブ、テクニカラードリームなど、熱気溢れるロンドンアングラの渦の中でピンクフロイドやソフトマシーン、ムーブやトゥモロウなどのサイケバンドが誕生し、ピンクフロイドのデビューによってアングラの枠を飛び越え世界中に広がることとなる。
一方メインストリーム勢もアメリカ西海岸で起こったフラワームーブメントにすぐさま反応しサイケデリックにのめり込んでいく。そのイギリスメインストリーム勢のサイケ道をビートルズと並んで先導し、英米問わず後続の様々なバンドに多大な影響を与えたのがドノヴァンであった。
66年8月リリース「Sunshine Superman」でフォークシンガードノヴァンはサイケロッカーへと変貌を遂げる。
セッションマン時代のジミーペイジがギターで参加。4曲参加して13ポンドの支払いを受けたらしい。その内の1曲でありアルバム1曲目、アルバムタイトル曲「Sunshine Superman」は66年6月にシングルリリースされ全米1位を獲得した。この曲ではジョンポールジョーンズがベースを弾いている、みたい(不確か)。ドノヴァンの代表曲の内の1曲である最高のサイケロックだ。
2曲目の「Legend Of A Girl Child Linda」ではハープシコード、ストリングス、リコーダー、鉄琴など多数の楽器を用いたアンサンブルに優しい歌を乗せた美しい曲。
3曲目「Three King」ではフォークであるがディランのフォークではないブリティッシュトラッドの独特の暗さを持ったアシッドフォークを聴ける。
5曲目「Bert's Blues」はウッドベースが印象的なジャス風味の曲だが「Bert」とは友人であるアコースティックギターの名手バートヤンシュのことであり、彼に送った曲のようだ。バートヤンシュが結成し68年にデビューするジャズフォークバンドペンタングルを思わせるジャズフォークを66年にすでに披露している。
6曲目、これも代表曲である「Season Of The Which」は67年にデビューするヴェルベットアンダーグラウンドへ続いていく匂いのする名曲である。ルーリードは間違いなく影響を受けているはず。
ラストの「Celeste」もヴェルベッツの雰囲気を持った曲でハープシコードが美しい名曲であるが、この美しいメロディなんかに似てるなーなんて考えてたらSagittariusの「Song to the magic frog」だわ。ソフトロックの重要人物カートベッチャーもドノヴァンの影響下にいたのかも、《魔法のカエル》なんていかにもドノヴァンワールドな感じだし。
このアルバムではサイケの代名詞であるインドの弦楽器シタールも導入している。65年ビートルズ「ノルウェーの森」でジョージハリソンがシタールを弾いたのがロックで初めてシタールを使用した曲であり、ジョージハリソンにインドの有名なシタール奏者ラヴィ・シャンカール(実はノラジョーンズの親父)を紹介したのはバーズのロジャーマッギンとデヴィッドクロスビーであるし、ストーンズも66年に「Paint It, Black」でブライアンジョーンズが使用しており、サイケデリックロック以前にすでにラーガロック(インド音楽+ロック)は誕生していた。ドノヴァンはこの時期からビートルズやブライアンジョーンズと交流を持っており、そんな流れでのシタールの導入だったのかもしれない。
ロック界に衝撃を与えた素晴らしいアルバムなんだけど、何がすごいって本当にディランの影が1ミリもないのね。まだサイケブームがさほど広がっていない言わばパイオニア的な立ち位置で以前演っていた音楽から完全に逸脱したものをやってるってのは恐ろしい。アルバムは全米11位を記録。
このサイケ化と同時に詩もメルヘンワールドに突入し始める。ここからドノヴァンは《おとぎの国から来た王子様》みたいなイメージがついていくのだが詩の世界感もさることながら可愛げのあるメロディとどこかファンタジー感のあるアレンジメントでカラフルサイケはカラフルサイケでも『メルヘンサイケ』、『ファンタジーサイケ』と呼べるような独特の世界観を作り出しビートルズともバーズともピンクフロイドとも一味違う魅力を持った存在へとなっていく。
67年には4th「Mellow Yellow」をリリース。タイトル曲ではジョンポールジョーンズがアレンジを担当。この「メロウイエロー」という曲は恐らく彼の1番の代表曲であるだろう。ビートルズの「イエローサブマリン」と同じ雰囲気を持った可愛いメロディのサイケポップだが、実はイエローサブマリンの歌詞の一部をドノヴァンが手伝っており、そのお返しにポールがこの曲に参加している。間奏部分のホーンソロの後ろでワーワー言ってる〝ガヤ〟のどれかがポールであるのだがどれかはわからない。それとは別にアルバムのどれかの曲でポールがベースを弾いてるようだがそれもクレジットがないのでどれかわからない(マニアなら知ってるのか?教えて!)。
歌詞はサフランやら電気バナナがどーとか訳の分からないことを歌っているが、この〝電気バナナ〟というワードがサイケの重要ワードとなり、ヴェルベッツのアンディウォーホル作のバナナジャケットに繋がって行くという話もある(ほんまかいな)。ちなみにメロウイエローのシングルは66年10月、ヴェルベットアンダーグラウンドのバナナは67年3月。
アルバムには「House of Jansch」という曲があり、これまた友人のバートヤンシュに捧げている。前作では「Bert's Blues」で今作は名字のヤンシュ。どんだけ好きなのよ。
この辺りでLSDにどっぷり浸かっているドノヴァンなんだけど、ドノヴァンがイギリスのミュージシャンでドラッグで逮捕された最初のミュージシャンだって話をどこかで読んだ気がするんだけど調べてもわかんないなぁ…
そんなLSD真っ盛りの中67年12月にリリースしたのが2枚組の5thアルバム「A Gift From a Flower to a Garden」。
この時アメリカでの人気は絶頂に達していたんだけど、本国イギリスではどうだったのかというと、もちろん人気は人気なんだがとにかくリリースがアメリカより半年くらい常に遅いのね。イギリスではパイレコードってレーベルと契約してて、キンクスとかがいたレーベルみたいなんだけど、そこがダメなのかなんなのかその辺の事情はよくわからないんだけど。3rd「Sunshine Superman」と4th「Mellow Yellow」にいたっては「Sunshine Superman」が遅れすぎて「Mellow Yellow」とリリースが被るってゆーんで二枚の半分ずつをチョイスして1枚にしてリリースしちゃったり。
てなわけでイギリスでは68年4月にリリースとなったこの2枚組なんだけど僕は1番お気に入り。「ドノヴァンの贈り物」という邦題がぴったりなドノヴァンワールド全開のアルバム。と言っておききながらおススメ!とは言えない。「Sunshine Superman」や「Mellow Yellow」のようなポップなヒットソングはなくて、しかも2枚組という大ボリューム、多分パッとしないと思われるだろうなぁと人に推める時に思ってしまう。でも本当に素晴らしいんだよね。同じ2枚組のビートルズの「ホワイトアルバム」みたいな感じ、と言えばこのニュアンスは伝わるだろうか。実験的アイデアがたくさん詰まったドノヴァンからの贈り物なのだ。
今作はペイジもジョンジー(ジョンポールジョーンズの愛称)も不参加でありギターよりオルガン等の鍵盤がメインのアレンジとなっている。ドノヴァンのメルヘン度はピークに達しもはやメルヘンというか宗教じみてきている。歪んだギターもなくわりと大人しく可愛い曲が並ぶが僕はこのアルバムが1番ドラッギーだと思う。
Disc1,1曲目のシングルとしても出された「Wear Your Love Like Heaven」は至極のアシッドフォーク。この曲が個人的にドノヴァンベストソングだ。Disc1最後の曲「Someone Singing」も何をどうしたらこんな曲が作るのか、素晴らしい。この「Someone Singing」ではジャックブルースがベースを弾いている。
フォークシンガーからサイケに転身したドノヴァンだが「Sunshine Superman」,「Mellow Yellow」と順に聴いて「あー時代に完全に順応してるなぁドノヴァン」となりこの2枚組を聴いて「あ、あかんこいつ本物や」となる。このアルバムを聴いてから《イギリスのディラン》という印象は僕の頭の中から消えたのだ。
(ビートルズとのインド訪問、ポールの隣の黄色がドノヴァン)
ドノヴァンの幅広い交友関係は彼の特徴であるがその様々な関わりの中でやはり1番有名なのは68年2月にビートルズやマイク・ラブ(ビーチボーイズ)等と共にインドを訪問したことだろう。数週間の滞在中彼らが体験したものは非常に有意義なものであったであろうことがビートルズとドノヴァンの68年のアルバムに表れている。ビートルズの「ホワイトアルバム」は全30曲からなる2枚組アルバムだがその大半はインド滞在中に書かれたものであり、同じくドノヴァンの6th「The Hurdy Gurdy Man」もインド滞在中に書いた曲を中心に制作された。マイクラブもビーチボーイズ「フレンズ」にてインド体験を曲にしている。この時にドノヴァンはジョンとポールにギターのスリーフィンガーのアルペジオ奏法を伝授しており、そのアルペジオパターンは面白いくらい「ホワイトアルバム」で聴くことができる(ジュリアやディア・プルーデンスなどなど)。ヘルタースケルターのアイデアもマイクラブによるものだと言うし、インドでの静かな日々の中で共作とまでは言わないがビートルズとドノヴァンとマイクラブがアコースティックギターを弾きながら楽しくやってる姿が想像できる。
そんなインド訪問の賜物であるドノヴァン6th「The Hurdy Gurdy Man」は68年9月にリリース。僕が最初に買ったドノヴァンのアルバムで思い入れのあるアルバムだ。
タイトル曲「Hurdy Gurdy Man」はジョンジーがベースで参加しており、ドノヴァン曰くジミーペイジとジョンボーナムも参加しほぼツェッペリンをバックにレコーディングされたらしい。そう言われて聴くと正にツェッペリンなサウンドだ!と思うが、ジョンジー曰くペイジもボーナムも参加していないという。ドノヴァンとジョンジーどちらを信じるか…となるとジョンジーの方が何となく正確そう(笑)。
何故こんな誰が弾いてるか分からないような事態が起こるのかというと、ペイジがセッションに参加していたのは間違いないみたいだが、当時は演者側、セッションマン側、プロデューサー側それぞれに守秘義務があり、誰のどのプレイがどこで使用されているのかセッションマン本人にも知らされないことも多かったようなのだ。よくわからんシステムである。
ペイジも無数のセッションをこなして覚えてないんだろうし、ドノヴァンはメルヘンの住人だから記憶怪しいし、多分ジョンジーはそうゆうのしっかり覚えてそうだなぁ…って感じ。
この1曲目のタイトル曲こそハードだが他の曲は穏やかな曲が並んでいる。ドローン音を多用しインド帰りを感じる面もしっかりあり、ジャズ風のクールな5曲目「Get Try Bearing」、メルヘン全開真骨頂の8曲目「Jennifer Juniper」など聴いていて飽きないアルバム。
全米20位、イギリスではリリースされなかった。
サイケの終焉
69年7th「Barabajagal」ではロッドスチュワート以外のジェフベックグループをバックに従えた1曲目のタイトル曲「Barabajagal」がヒット。サウンドはジェフベックグループなのにボーカルが違うとこんなに雰囲気変わるんだなってゆー面白い曲。この曲と9曲目の「Trudi」にジェフベックグループが参加。その2曲以外もかなり実験的なサウンドが目立つアルバムだけど前作までと雰囲気が違う、そう、69年、サイケデリックが終わったのだ。ほんとに69年にみんなしっかりやめるんだよな。ブルースやフォークへ回帰した感じだがドノヴァンの個性的なニュアンスが新たな面白味を出している。
ここからはサラッと。
70年にはリンダ・ローレンスと結婚。リンダには連れ子がいて、ドノヴァンはその子の養父となるわけだが、このジュリアンという少年の父親は誰なのかというと69年に死んでしまった元ローリングストーンズのブライアンジョーンズである(リンダと結婚はしてない)。ブライアンとドノヴァンは友人であった。
70年「Open Road」ではOpen Roadという同名のバンドを結成し、バックミュージシャンを固めての作品となった。サイケからは一切離れ、ブルースやフォークを基盤としたスタンダードなバンドサウンドに仕上がった。メルヘンを離れ地に足をつけた印象。
71年「HMS Donovan」は2枚組28曲の不思議の国のアリスなどの児童文学をモチーフにしたメルヘン、ファンタジーに振り切ったトータルアルバム。「Barabagajal」,「Open Road」とサイケの終焉と共にメルヘンさも失われたかと思いきや復活。サイケを省いた完全なるメルヘンはもはや童謡。バンドサウンドも最小限に抑え、ドノヴァンのトラッドフォークを基盤とした弾き語りを中心にセリフなんかも絡めながら物語が進行していく。この70年前半はプログレフォークと呼ばれるトラッドフォークを基盤としたTreesやMellow Candleのようなブリティッシュフォークバンドも多数存在していたので案外ズレてはいない。この完全なる童謡、童話作品はドノヴァンのメルヘン世界の完成形とも言えることからドノヴァンの最高傑作と捉える人もいる。
73年「Cosmic wheels」はグラムロックといえる作品である。ボウイやマークボランにも影響を与えたと言われるドノヴァン自身もグラムロックへと進むのは自然なことかもしれない。個人的にハードなサウンドはやはりドノヴァンには似合わないと思うが、先入観を抜きにすると抜群のグラムロック。
ジェフベックグループのコージーパウエル、世に出る前のスージークアトロが参加。
ここまでドノヴァンの人気は継続していたが、このアルバムを最後にチャートとは無縁になる。2013年までコンスタントにアルバムをリリースしているが話題にならないといった感じである。
まとめ
とにかくドノヴァンについては「《イギリスのディラン》がサイケブームに乗っかった」のではなく、むしろブリティッシュサイケブームを作り出し引っ張った男であるということを伝えたい。
ビートルズやストーンズと交流を持ち、後続のミュージシャンに多大な影響を与えたドノヴァン。「Mellow Yellow」などのヒット曲で知られてはいたが、実は90年代になって再評価された類のミュージシャンであるんだよね。そしてまだ評価足りてないぞ!って思う。
1st,2ndのフォークシンガー期はディラン好きなら是非!
重要なサイケ期の3rd「Sunshine Superman」,4th「Mellow Yellow」,6th「The Hurdy Gurdy Man」は必聴。ツェッペリンファンもペイジとジョンジーを楽しめるかも!
アシッドフォークが好き、もしくはドノヴァンが気に入ったなら5th「A Gift From a Flower to a Garden」を聴いてほしい!最強!
7th「Barabagajal」,8th「Open Road」はジェフベックグループやハードロック、ブルースロック好きに!
9th「HMS Donovan」は童謡好き、トラッドフォーク好きも是非、あとお子さんに!
10th「Cosmic wheels」はグラムロック好きに!
以上!
ドノヴァン周りの図はこんな感じ
ロンドンサイケとは言えないんだけど、4章はブリティッシュサイケということに!