10-2 〈デヴィッド・ボウイ〉になるまで(第61話)
69年にアポロ月面着陸に合わせてリリースされた〝Space Oddity〟で世に知られ、70年代前半はバイセクシャルの宇宙人〈ジギー・スターダスト〉を演じグラムロックを牽引、70年代半ばにはソウルに傾倒し新たなキャラ〈シン・ホワイト・デューク(痩せた青白き公爵)〉を演じ、70年代後半はブライアン・イーノとタッグを組み《ベルリン三部作》を発表、80年「スケアリー・モンスターズ」で一連のキャラ作りに終止符を打った後、83年「Let's Dance」でスターダムに上り詰めたデヴィッド・ボウイ。
様々なキャラを憑依させ、様々なジャンルへアプローチし、様々な人物とコラボレーションした、そんなボウイの時代によって姿を変える変幻自在さは《カメレオン・ボウイ》と称されるほどであるが、そもそもその土台である〈デヴィッド・ボウイ〉自体が偽名なわけであって、死ぬ2日前に最後のアルバムをリリースしたこの男はある意味死ぬまで〈デヴィッド・ボウイ〉を演じ続けたと言えるだろう。
さて10章ではそんな役者・ボウイ(実際に俳優としても数々活躍してる)を中心に図を作成していこうと思っているわけだが、まずはデヴィッド・ボウイが〈デヴィッド・ボウイ〉になる前の話から。
10-2 デヴィッド・ボウイになるまで(第61話)
本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ、1947年1月8日にロンドン南部ブリクストンに生まれた。6歳までストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年にジョーンズ一家はブロムリーの郊外に引っ越す(土地感全くわからないが全部ロンドン南部の町のよう)。
音楽好きの父親の影響で幼いころからR&RやR&B,ドゥーワップなどのアメリカのポピュラーミュージックに触れて育つ。
じきにジョン・コルトレーンやチャールズ・ミンガスなどのモダンジャズに関心を持ち始め、61年14歳の時にプラスチック製のアルトサックスを母から送られレッスンを受け始める。なわけでボウイの最初の楽器はサックスであり、ボウイは後にレコーディングやライブでサックスを度々披露している(実力の程はよくわかんない)。
〈兄、テリー・バーンズ〉
モダンジャズへの傾倒は歳の離れた兄テリー・バーンズからの影響が強い。ジャズと同時にビートニクの巨匠ジャック・ケルアックの『路上』も勧められ、ボウイの読書癖のきっかけにもなった。少年時代のボウイは兄テリー・バーンズを崇拝し敬愛しており、〈デヴィッド・ボウイ〉の生成に非常に影響を与えた存在である。
テリー・バーンズはそうした音楽や文学などの文化的影響を与えたと共に、〈デヴィッド・ボウイ〉のシリアスでナイーブな精神世界の形成にも関わっている。テリーはボウイの異父兄であり、つまり母の連れ子であった。父はテリーを邪険に扱い、さらに母もそれを止める様子もなくボウイのみを可愛がる、そういった家庭環境の中で兄を愛するボウイは非常に複雑な少年時代を過ごしたらしい。母は3代に渡る精神病の血筋を持っており、テリーも戦争に空軍として赴任した際に発症。さほど重度ではなかったようだが親に厄介払いされる形で精神病院に入院させられた。ボウイは精神病院に入るとより症状が悪くなることを知っていた。
そんなわけからボウイは愛する兄を蔑ろにした母をずっと避けており(父は69年に死去)、さらに自身も母の家系であることから自分の精神もいつか破綻するんじゃないかと常に不安がっていたよう。自身の精神と向き合う恐怖心から他の人格を宿し演じる〈カメレオン・ボウイ〉が生まれたのかもしれない。
兄テリーバーンズのことを題材にしたボウイの曲は多数あり、俳優としての代表作『戦場のメリークリスマス(83')』でボウイが演じたジャック・セリアズ英軍少佐とテリーバーンズの類似点も多いと言われている。何にせよ兄テリー・バーンズは〈デヴィッド・ボウイ〉に非常に強い影響を与えた人物である。テリーは85年に自殺。
〈ボウイのオッドアイを作ったジョージ・アンダーウッド〉
ボウイの奇抜な容姿の特徴の1つが左右の瞳の色が違う〈オッドアイ(虹彩異色症)〉であるが、その原因としてよく語られるのが62年、15歳の時に学校でガールフレンドを巡り友人のジョージ・アンダーウッドと喧嘩になった際左目を殴られ重傷を負い、4ヵ月の入院と数度の手術を行った結果オッドアイになった、という話である。
しかしこれには多説あり、『元々生まれつきオッドアイであり、この喧嘩の後遺症で左目の瞳孔が開きっぱなしになった』説や『そもそもボウイはオッドアイではなくて、この喧嘩の後遺症で瞳孔が開きっぱなしになった結果そう見えるだけ』説なんかがあるが真相はよくわからない。ただよく見ると確かに左目の瞳にもわずかに青い淵が見えるので『左目の瞳孔が開いてることで青い部分が隠れてオッドアイに見える』が正解じゃないかと僕は思っている。
何にせよこのオッドアイ(風)の瞳はボウイが〈ジギースターダスト〉で演じた宇宙人という設定に非常にマッチングしており、ボウイはジョージ・アンダーウッドに「この目をくれてありがとう」と感謝の言葉を述べたという後日談がある。
喧嘩の詳しい原因なんか今まで調べようとも思わなかったんだけど、これを機に調べてみたらこういうことらしい。
ジョージと恋人がデートの約束
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ボウイがジョージに「お前の恋人がデートキャンセルだってさ」と嘘を伝える
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結果恋人1時間待ちぼうけ
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真相を知ったジョージがボウイ殴る
だってさ。なんじゃそりゃ!完全にボウイが悪かった。
そんなジョージ・アンダーウッドは後にイラストレーターとしての道を進み、Tyrannosaurus Rexの1st(1968)やプロコルハルムの2nd「Shine On Brightly(1968)」、ボウイの4th「ハンキードリー(1971)」、Mott the Hoopleの「全ての若き野郎ども(1972)」などのアルバムジャケットのアートワークを手掛けた。
〈シングルについて〉
ちょいと話が逸れるが、僕は《アートロック》好きであるので基本的的にアルバム単位に興味があり、シングルにまで気がいっていない。で、アルバム重視の《アートロック》全盛の時代のシングルというのはアルバムに収録されてないことが多くて、ベストアルバムも基本的には聞かない僕は恥ずかしながら知らないシングル曲が多数あったりするわけ。
さらに下積み時代のシングルなんかも後にまとめてコンピレーションアルバムとしてリリースされることが多いが、コンピアルバムもあまり聴く方ではないのでこれらも知らないことが多い。
なわけでボウイの下積み時代のシングルもほとんど無視していたがこれを機にYouTube等で聴いてみたのでその辺りの話を少し。
〈バンド結成とデビュー〉
62年、ジョージ・アンダーウッドに殴られたのと同じ年に初めてのバンド〈Konrads〉を結成。バンドにはジョージ・アンダーウッドもいて、ボウイはプラスチック製のアルトサックスを卒業し、ギターかベースを弾いていたよう。
64年6月にVocalion Popというレーベルから〈Davy Jones With The King Bees〉名義でシングル〝Liza Jane〟をリリース。これがボウイのレコードデビューとなった。17歳。後のボウイの面影のカケラもないR&Bバンドで声も違っていてほんとにボウイなのか疑わしいくらい。ちなみにボウイは〈Konrads〉を去って〈The King Bees〉へ加入したとあるが、どちらにもジョージ・アンダーウッドが在籍していたよう。
ボウイはシングルをリリースするとすぐに〈The King Bees〉を去り〈the Manish Boys〉へ加入する。65年にParlophone Recordsから〈the Manish Boys〉名義でシングル〝I Pity the Fool〟をリリース。〝I Pity the Fool〟はブルースのカバーであるが、B面の〝Take My Tip〟が2拍3連を多用したキレキレのR&Bソングでカッコいい(恐らくオリジナル)。
続いて新たに〈The Lower 3rd〉というバンドへ加入。65年に〈Davy Jones(The Lower 3rdはアンクレジット)〉名義でシングル〝You've Got a Habit of Leaving〟をリリース。この〈The Lower 3rd〉というバンドはThe Whoの影響を受けたバンドであるようでこのシングルは《モッズ》っぽい音楽性になっている。気怠さと荒さのバランスが取れた良曲であると思う。間奏のギターの轟音には笑ってしまうが。
以上が名義上Davy Jones時代の3枚のシングルになるが区切りとしてはもう少し続きます。
〈David Bowie誕生〉
66年1月にPye Recordsから〈David Bowie with The Lower Third〉名義でシングル〝Can't Help Thinking About Me〟をリリースする。
ここで初めて〈David Bowie〉の名が登場するわけだが、改名理由としてはモンキーズのディビー・ジョーンズとの混同を避ける為だと言われている。モンキーズのデビューは66年8月であるが、ディヴィ・ジョーンズ(猿)はそれ以前にミュージカル俳優として活動したりソロアルバムをリリースしており、65年にビートルズが初めて『エド・サリヴァン・ショウ』に出演した回にも出演していたようなので割と認知度はあったのか、何にせよ1番濃厚な改名理由とされている。
【Bowie】は19世紀のアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイから取られた。
このシングルをリリースしてすぐにボウイを単体で推したいマネジメント側と〈The Lower Third〉の間に亀裂が生じ、〈The Lower Third〉はPye Recordsを去ることになる。
次にボウイのバンドとなったのが〈The Buzz〉というバンドであるがこちらは今までとは違いより〝バックバンド〟というスタンスだろうか。このバンドを従えて66年に〈David Bowie〉名義で〝Do Anything You Say〟と〝I Dig Everything〟の2枚のシングルをPye Recordsからリリースしている。
この辺りも《モッズ》や《ブリティッシュビート》や《フォークロック》なんかの正に60年代半ばのイギリスのミュージシャンという音楽性で聴きやすいがやはりまだあか抜けていない印象ではある。
以上
- 〝Liza Jane〟-Davy Jones With The King Bees名義で1964年Vocalion Popから-
- 〝I Pity the Fool〟-the Manish Boys名義で1965年Parlophone Recordsから-
- 〝You've Got a Habit of Leaving〟-Davy Jones名義(The Lower 3rdはアンクレジット)で1965年Parlophone Recordsから-
- 〝Can't Help Thinking About Me〟-David Bowie with The Lower Third名義で1966年Pye Recordsから-
- 〝Do Anything You Say〟-David Bowie名義で1966年Pye Recordsから-
- 〝I Dig Everything〟-David Bowie名義で1966年Pye Recordsから-
の6枚がボウイの下積み時代のシングルと言えるだろう。個人的には〝You've Got a Habit of Leaving〟が1番好き。【君は去り癖がある】って、まるでThe King Bees、the Manish Boys、The Lower 3rd、The Buzzと短い期間でバンドを渡り歩いた若きボウイ自身を歌ってるようでね。
このシングル達はほとんど話題にならず、17歳でレコードデビューしたボウイの不遇の時代は長く続くことになる。
ひとまずここまで!
この後ボウイはデラムレコードへ移り67年についに1stアルバムをリリースします。しかしこれも鳴かず飛ばずで失敗に終わり、人によってはそこまでを下積み時代と捉える人もいるかも!次回はその辺を!
(10-2〈デヴィッド・ボウイ〉になるまで)図